二回目のコンスルシップ
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「クイントゥス・セルウィリウス・ストルクトゥス・プリスクス」の記事における「二回目のコンスルシップ」の解説
翌紀元前467年、アンティウムを植民市とし、その土地が分配されることとなった。紀元前486年にスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスが発案した土地分配法以来、その実現のために争ってきたプレブスであったが、この時はローマの土地でないという理由で希望者が少なかったという。アエクイは前年に続いて軍事行動を起こし、ラティウムを荒らしていた。 紀元前466年、ストルクトゥスは二度目の執政官を務め、東方の山地に住むアエクイに対するためラティウムに陣地を築いたが、疫病の蔓延のために軍事行動は起こせなかった。 翌紀元前465年、ローマはアエクイに対し軍事行動を起こし、会戦では勝利したもののゲリラに転じたアエクイには手を焼き、ローマにまで迫られると緊急事態宣言が発せられた。この時は執政官ファビウス・ウィブラヌスの活躍により勝利したが、両執政官が出陣した場合にローマの留守を預かるプラエフェクトゥス・ウルビとしてストルクトゥスの名が記されている。
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