二回目のフランス艦隊の到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:20 UTC 版)
「ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)」の記事における「二回目のフランス艦隊の到着」の解説
1734年4月、スタニスワフがダンツィヒで封鎖を受けていることがパリに伝わると、救援に向けて二回目の艦隊が編成された。プレロ伯は15,000名から20,000名の軍を要請したが、当初はバライユ代将指揮下の軍艦2隻(「アキレ」と「グロワール」)とラ・モット伯ラ・ペルーズ率いる1,800名が派遣されただけであった。この部隊は5月11日、ヴァイクセルミュンデ要塞(ドイツ語版)に上陸する。4日後、ラ・モット伯は保持が不可能であるとしてその陣地を放棄し、コペンハーゲンに帰還した。そこでプレロ伯は行動の遂行を強く主張し、さらに3隻(「フリュロン」、「ブリヨン」と「ラストレー」)が来援した後、艦隊はダンツィヒに戻り、5月24日に部隊を揚陸する。5月27日、フランス軍とロシア軍との間に記録された初めて戦いにおいて、この部隊はロシア側の塹壕の攻撃を試みるも失敗し、ヴァイクセルミュンデに退却した。この時、プレロ伯は戦死している。6月1日にはトーマス・ゴードン(英語版)提督率いるロシア艦隊が到着し、さらなる攻城兵器を届ける。この艦隊はフランス軍の陣地を砲撃して大きな損害を与えた。その結果、同軍は二日後に降伏し、ヴァイクセルミュンデ要塞とダンツィヒ港の管理を譲り渡す。バライユ侯はコペンハーゲンに帰還する前、艦隊の2隻をもってロシアのフリゲート、「ミッタウ」を拿捕した。同艦は結局、捕虜となったフランス兵たちと交換されている。
※この「二回目のフランス艦隊の到着」の解説は、「ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)」の解説の一部です。
「二回目のフランス艦隊の到着」を含む「ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)」の記事については、「ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)」の概要を参照ください。
- 二回目のフランス艦隊の到着のページへのリンク