九州島内の交流電化
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「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「九州島内の交流電化」の解説
第二次世界大戦後は、石炭の節約の観点から国鉄の主要幹線の電化を推進する方針となった。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間運輸局(CTS)は、戦災復興を優先するべきという理由で電化の推進に否定的な態度を取り、占領期には電化はあまり進捗しなかった。1951年の主権回復の4年後の1955年(昭和30年)9月26日に発足した日本国有鉄道電化調査委員会では、早急に主要幹線3,300キロメートルの電化を推奨する報告書を11月29日に提出した。これを受けて1957年(昭和32年)度からの第1次5か年計画では、第1次計画として1,665.8キロメートルの電化を推進する方針となり、この中で関門トンネルの両側にあたる山陽本線の西明石 - 幡生間、鹿児島本線の門司港 - 鳥栖間が取り上げられた。 ちょうどこの時期、国鉄では交流電化の技術にめどをつけて採用を進める方針となっていた。国鉄の交流電化調査委員会では、交流電化の経済性を検討し、電車運転および交直接続の費用を考慮しなければ、常に交流電化が有利であると結論づけた。しかし、この検討は直流電化の技術の進歩を適切に考慮しておらず、また交流電化に必要となる建築限界の拡大に要する費用も評価されていないという問題があり、これに加えてすでに直流電化されている東海道本線の延長となる山陽本線では交直接続の費用が交流電化の経済性を帳消しにしてしまうことから、交直接続をどこで行うのがもっとも経済的かということが検討された。 この検討の際に大きなポイントになったのが関門トンネルの建築限界の問題で、トンネルの断面は本来は設計上5,100ミリメートルの高さがあるはずであり、交流電化には大きな問題はないと考えられていたが、1957年(昭和32年)12月に実測してみたところ、戦時中の材料不足による工事方法変更の結果として短区間ではあるものの4,970ミリメートルの高さとなっている場所があることが判明した。この高さでも、特別な架線吊架方式を採用し絶縁方法を工夫することで交流電化も不可能ではないとされたが、将来的に大きな貨物の輸送に支障をきたすおそれがあった。これに加えて、関門トンネル内は海水の漏洩が激しく、直流電化においても絶縁の保持に苦労している現状があり、交流2万ボルトに変更すればよりいっそう保守が困難になるものとされた。 また交直接続箇所においては、地上切替方式を採用しないのであれば、高価な交直両用の機関車を必要とする。交直接続箇所から西側をすべて交直両用機関車で牽引すれば、機関車の総所要両数は減るが、高価な交直両用機関車の所要数が増加する。一方、交直両用機関車による牽引を交直接続箇所をまたぐ区間に限定して、西側では交流専用の電気機関車を使うものとすれば、交直両用機関車の所要数は減るが機関車の総所要両数が増加となる。しかし、関門トンネルは急勾配の長大トンネル区間であり、もともと高速運転をしないうえに、電動機に電流を流して走る時間も短く、加えてトンネル内は一定の気温であることから発熱の観点で有利になる。さらに短区間であることから蒸気暖房用の蒸気発生装置を搭載する必要もないとして、この区間に限れば交直両用の機関車としては安価な専用機関車を設計できるものとされた。こうした点を考慮し、最終的に山陽本線を直流、鹿児島本線を交流で電化し、門司駅構内を交直接続点とする方式が決定された。 こうして電化が推進されることになった。通常は既存の電化区間をそのまま延長していくが、そうなると九州への電化の到達はかなり先のことになり、日本有数の重工業地帯で当時輸送量が急増していた北九州地区の輸送需要に応えることができないという問題があった。そこで飛び地となるが、山陽本線の小郡以西と九州島内を先に電化する方針となった。 こうして1961年(昭和36年)6月1日に山陽本線小郡(のちの新山口駅) - 下関間と、鹿児島本線門司港 - 久留米間の電化が開業した。このために交直両用の421系電車が製作・配置され、関門トンネルを通過して山陽本線と鹿児島本線を直通する運転を開始した。北九州の通勤輸送対策のためにこの電化開業では、交直両用電車を投入して一部の客車列車を置き換えあるいは増発することが先行することになり、この時点では客車や貨車を牽引する機関車については従来のEF10形が引き続き用いられた。EF10形は直流専用であるため、門司駅構内の内側の関門トンネルから列車が出入りする線路から門司操車場に至る区間はこの時点では暫定的に直流電化のまま残され、外側の鹿児島本線の線路が交流電化され、交直デッドセクションは暫定のものが小倉側の山陽本線と鹿児島本線の分岐部に設置された。 関門トンネル区間用の交直流電気機関車としては、EF30形電気機関車が開発された。1961年(昭和36年)8月から10月にかけて、量産形のEF30形が門司に配置され、8月から順次営業運転を開始し、10月1日から本格的に運用を開始した。代わって、EF10形は関門間の運用から外れ、直流電化区間へ順次転出していった。これにより、交直デッドセクションを本来の位置に移設する工事が行われ、1962年(昭和37年)3月2日から門司駅構内は全面的に交流電化となった。本来の交直デッドセクションの位置でも、下り線の旅客線と上り線の旅客・貨物線はともに関門トンネル出口付近のシーサスクロスポイント(両渡り線)付近にあるが、下り線の貨物線は上下ホームの間をさらに進んだ小倉側に設置されており、これはトンネル出口の上り勾配で列車が停止してしまった場合に、再発進しても十分加速できないままデッドセクションのために惰行しなければならなくなる危険を回避するためだとされている。 1964年(昭和39年)10月1日には、山陽本線の全線電化が完成した。このとき、東海道新幹線も同時に開業したことから、在来線の東海道本線での運用を終えた151系電車が山陽本線での運用になり、特急「はと」「つばめ」として九州まで直通で乗り入れることになった。しかし151系は直流専用であったため、電源車としてサヤ420形を連結したうえで、九州島内では電気機関車で牽引されて走ることになった。この運行は1年で終わり、交直両用の特急電車として481系電車が1965年(昭和40年)10月1日から使用されるようになった。同時に急行用の475系電車も投入されて、関門トンネルを往来するようになった。
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