九州島と南島・朝鮮半島間の交流とは? わかりやすく解説

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九州島と南島・朝鮮半島間の交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:46 UTC 版)

縄文人」の記事における「九州島と南島・朝鮮半島間の交流」の解説

縄文前期には九州島中心として轟式土器呼ばれる土器広く使用されるようになった轟式土器九州島周辺の他、種子島屋久島朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々半島間を航行した縄文人集団存在したことを伺わせる。日本列島周辺南西諸島周辺朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。 また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島の高又遺跡沖縄島読谷村渡具知東原遺跡朝鮮半島慶尚南道にある釜山市東三貝塚などから発見されている。縄文人黒潮本流越えた例としては、この曽畑式土器持った集団による縄文前期九州島奄美大島間の航海が最も古く関東における三宅島八丈島間の航海よりおよそ800年早いのであるとされている。東三貝塚では大量縄文土器北松浦半島黒曜石出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。なお、朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石産出されない。 長浜浩明は、大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長伊藤太郎見解として、「1969年から1971年にかけて東三貝塚下層から尖底・円底無文土器発見された。これらの中には北松浦半島泉福寺洞穴福井洞穴などから発見され隆起線文土器類似する土器同じく北松浦半島黒曜石大形石斧佐世保市相浦門前遣跡 製)も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦貝塚などからも発見されている」と紹介し縄文人7000年前から無人朝鮮半島渡り半島北部まで進出していた、と述べている。また、朝鮮半島南部煙台貝塚から発見され古人骨紀元前4000年)は縄文人特徴多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島住み始めた人々日本からやって来た縄文人だったという考古学から推論が、形態人類学によって裏付けられたとしている。また長浜は、朝鮮半島櫛文土器文化土器九州曽畑式土器縄文前期そのものであると述べている。

※この「九州島と南島・朝鮮半島間の交流」の解説は、「縄文人」の解説の一部です。
「九州島と南島・朝鮮半島間の交流」を含む「縄文人」の記事については、「縄文人」の概要を参照ください。

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