九州島と南島・朝鮮半島間の交流
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「縄文人」の記事における「九州島と南島・朝鮮半島間の交流」の解説
縄文前期には九州島 を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島周辺の他、種子島や屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことを伺わせる。日本列島周辺や南西諸島周辺、朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域を行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。 また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島の高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡、朝鮮半島の慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから発見されている。縄文人が黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている。東三洞貝塚では大量の縄文土器と北松浦半島産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。なお、朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない。 長浜浩明は、大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。これらの中には北松浦半島の泉福寺洞穴や福井洞穴などから発見された隆起線文土器と類似する土器、同じく北松浦半島の黒曜石と大形石斧(佐世保市相浦の門前遣跡 製)も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されている」と紹介し、縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた、と述べている。また、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられたとしている。また長浜は、朝鮮半島の櫛文土器文化の土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている。
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