九州巡幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:21 UTC 版)
即位12年、熊襲(現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく8月に天皇自ら西下。9月、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長峡県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。 10月、豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)に進むと速津媛という女酋が現れた。速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猿、八田という。そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺した。 11月、日向国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という。12月、襲国にいるという厚鹿文 (熊襲梟帥、くまそたける)を討つ計画を立てた。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文は兵を一、二人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。そこまでは考えていなかった天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造に送り飛ばしてしまった。 翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。日向国造の祖である。高屋宮に留まること六年経った即位17年、子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。そして野原の岩の上に立ち、都を思って思邦歌(くにしびのうた)を詠んだ。 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一) 命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 白橿が枝を 髻華(うず)に挿せ この子 即位18年、3月に都へ向け出立。夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県(熊本県球磨郡)に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市または佐賀県多久市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頰という土蜘蛛を誅殺。さらに阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、御木(福岡県大牟田市)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。 即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていない。
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