リオデジャネイロ号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:00 UTC 版)
「南アメリカの建艦競争」の記事における「リオデジャネイロ号」の解説
詳細は「エジンコート (戦艦)」を参照 ブラジルの1隻目の弩級戦艦であるミナス・ジェラエスが進水すると、ブラジル政府は経済的、そして政治的理由から3隻目の弩級戦艦を契約から取り除くよう働きかけるようになった。政治的な理由とは、アルゼンチンとの関係改善、そしてチバタの反乱(英語版)の2つだった。アームストロング社はブラジル政府に契約を守らせようとしており、債券の利子率が下がったことでブラジル政府が資金を借りやすくなったこともあって、ブラジルは要求を取り下げた。リオデジャネイロは1910年3月にはじめて起工した。 5月、ブラジル政府はアームストロング社にリオデジャネイロの建造を止め、最新型の超弩級戦艦の技術を取り入れた新設計を提出することを要求した。ユースタス・テニスン・ダインコート(英語版)がアームストロング社の駐ブラジル代表を務めた。1911年のブリタニカ百科事典第11版では新設計を全長655フィート、重量32,000ロングトンで14インチ砲を12門積載して、合計300万ポンド近くかかるものとした。ブラジル海軍が多くの細かい変更を要求したことにより、契約の締結が1910年10月10日までずれ込み、さらに造船工の名誉組合(英語版)との労使紛争により一時ロックアウトに発展し、起工が遅れた。その間にブラジル海軍大臣がジョアキン・マルケス・バティスタ・デ・レオン(ポルトガル語版)提督に変わったが、これは建艦計画に大きな影響を及ぼした。というのも、契約は新設計に新任の海軍大臣の許可が必要であると定めており、デ・レオンなどは12インチ砲への回帰を主張、一方前任のデ・アレンカルやドゥアルテ・ウエト・デ・バセラル・ピント・ゲデス(ポルトガル語版)(ブラジル海軍駐イギリス代表団の団長)などは最大級の武装を主張した。例えば、バセラルの設計では16インチ砲8門、9.4インチ砲6門、6インチ砲14門を搭載した。 契約が締結された直後の1910年10月にブラジルを発ったダインコートは1911年3月に戻り、ブラジル海軍に設計案を示した。アームストロング社がデ・アレンカルやバセラルの主張が通ると考えたため、ダインコートはバセラルの設計に基づく契約に必要なものを全て持っていった。3月中旬、アームストロング社はレオンが直近に当選した大統領エルメス・ロドリゲス・ダ・フォンセカ(英語版)を説得して、14インチ砲12門を採用した設計を破棄してより小型な設計を採用させたとの報せをブラジルから受けた。しかし、レオンの説得のみが原因ではなかった。1910年11月、ブラジル海軍は新しく購入した軍艦3隻とより古い海防戦艦1隻で反乱を起こして海軍における体罰への反対を訴え(チバタの反乱)、ダ・フォンセカはすでにこの反乱に手を焼いていた。 さらに、経済が悪化している上に弩級戦艦の支出と借款の支払いにより、政府の財政赤字も公債も増えた。ブラジルの1人あたり国内総生産は1905年の718ドルから1911年の836ドルに増えた後、1914年の780ドルまで減らした(いずれも1990年時点のGKドル(英語版)準拠)。ブラジルの国内総生産が完全に回復したのは第一次世界大戦戦後のことだった。一方、ブラジルの外債が5億ドルに、内債が3.35億ドルに増えた(1913年時点、当時の米ドル準拠)。これは政府の財政赤字が1908年の2,200万ドルから1912年の4,700万ドルに増えたことが一因となっている。5月、ダ・フォンセカ大統領は新しい艦船を批判した: 私は就任したとき、私の前任が重さ32,000トン、14インチ砲を装備した戦艦リオデジャネイロの建造契約を締結したことを発見した。どのような検討でもこのような艦船の獲得が迷惑であることと、トン数を減らすという形で契約を改訂すべきことを指していた。契約の改訂は行われ、私たちは経験則に従わない誇張された言葉に基づかない、強力な艦船を保有するだろう。 ダインコートはおそらく政治情勢を鑑みて、16インチ砲を含む設計を提示しなかった。レオンとの会議において、舷側砲がミナス・ジェラエス級のそれと同じだったが中央に12インチ砲10門しかない設計はすぐに却下され、一方中央に少なくとも12インチ砲14門を有する設計は受け入れられた。デイヴィッド・トップリス(David Topliss)によると、これは政治上そうしなければならなかった。彼は海軍大臣がミナス・ジェラエス級よりも弱い弩級戦艦の購入を正当化できないと考え、より大型な大砲が選ばれないのであればより多数な大砲しかないと結論付けたのであった。 ブラジル海軍の多くの設計変更要求が受け入れたか拒否された後、12インチ砲14門を有する艦船を2,675,000ポンドで購入する契約が1911年6月3日に締結された。そして、リオデジャネイロは9月14日に4度目となる起工を行った。しかし、ブラジル政府が決定を再考するまでに時間がかからず、1912年中には14インチ砲を有する戦艦が建造されるようになり、リオデジャネイロは完成時点で旧式艦になってしまう可能性が出てきた。さらに、1913年8月に第二次バルカン戦争が終結してヨーロッパが不況に陥ると、ブラジルは外国からの借款を得にくくなった。同時期にはイギリスがアジアでゴムのプランテーションを建設してブラジルのゴム独占(英語版)を崩し、コーヒー豆の価格も2割下がり、ブラジルのゴムとコーヒー豆輸出が同時に崩壊した。ブラジルのコーヒー豆輸出は1912年と1913年の間に12.5%下落、ゴムも25%と36.6%下落した。ブラジル海軍は後にリオデジャネイロの売却を正当化するために、2種類の戦艦を保有すると主張した。すなわち、12インチ砲を有するミナス・ジェラエス級戦艦2隻と、15インチ砲を有する戦艦2隻である。 アームストロング社は12インチ砲を15インチ砲7門に置き換える可能性を調べたが、ブラジルはおそらくすでに売却を試みていた。第一次世界大戦直前の緊張した情勢ではロシア、イタリア、ギリシャ、オスマン帝国など多くの国が購入に前向きであり、ロシアはすぐに脱落したがイタリアとそのライバルであるギリシャとオスマン帝国は興味を持った。一時はイタリアが購入するとも思われたが、フランスは仮想敵国のイタリアに購入されるくらいならと、ギリシャによる購入を支持した。ギリシャ政府は元の価格に5万ポンドを上乗せした価格を提示したが、ギリシャが頭金を集めている最中、オスマン帝国も提案をした。 オスマン帝国はブラジルのリオデジャネイロを獲得する代償として戦艦レシャディエに金銭を追加して交換することを提案したが、ブラジル政府は購入のみ受け付けるとしてオスマン帝国の提案を拒否した。オスマン帝国は資金が不足しており、借款を余儀なくされた。オスマン帝国にとって幸いなことに、政府から独立して行動するというフランスの銀行家から借款を確保することができた。これにより、オスマン海軍は1913年12月29日に120万ポンドでリオデジャネイロを購入した。購入契約では残りの工程にオスマン帝国からの2,340,000ポンドを充てるとした。リオデジャネイロは「スルタン・オスマン1世」に改名されたが、第一次世界大戦が開戦するとイギリスに接収され、「エジンコート」としてイギリス海軍に編入された。 アルゼンチン政府は1912年10月に、リオデジャネイロが完成してブラジルに引き渡されることを条件に3隻目の弩級戦艦の購入を許可したが、リオデジャネイロは結局完成しなかった。
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