新型軍艦の建造と試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:00 UTC 版)
「南アメリカの建艦競争」の記事における「新型軍艦の建造と試験」の解説
ブラジルのミナス・ジェラエス級戦艦のリードシップであるミナス・ジェラエス(英語版)は1907年4月17日にアームストロング社により起工、姉妹船(英語版)のサン・パウロも13日後にヴィッカース社により起工した。ミナス・ジェラエスの進水に必要な、部分的に完成した船体は5か月間のストライキにより、進水が1908年9月10日に延期された。その後、サン・パウロも1909年4月19日に進水した。2隻とも大勢の人が見守る中、ブラジル駐イギリス大使(英語版)のフランシスコ・レジス・デ・オリヴェリラ(Francisco Régis de Oliveira)の妻によって命名された。艤装の後、速度、耐久、武器などを試すための海上公試がミナス・ジェラエスを検体として9月に複数回行われた。この海上公試では史上最大規模の軍艦による舷側砲斉射が行われた。ミナス・ジェラエスはその後、完成して1910年1月5日にブラジルに引き渡された。海上公試は上部の背負い式砲塔(英語版)からの砲撃が下部砲塔の人員に爆傷を負わせないことを証明した。船自体は27,212指示馬力(indicated horsepower)から21.432ノットの速度を出すことに成功した。サン・パウロも1910年5月末の海上公試の後、7月にブラジルに引き渡された。サン・パウロの海上公試では28.645指示馬力から21.623ノットの速度を出した。 アルゼンチンの戦艦リバダビアはフォアリバー造船所のマサチューセッツ造船所で建造された。最終的な契約で定められたように、戦艦モレノ(英語版)の建造はニュージャージー州のニューヨーク造船会社に下請けに出された。建艦に必要な鋼鉄は主にペンシルベニア州のベスレヘム・スチール社から供給された。リバダビアはアルゼンチン初の独立政府であるプリメラ・フンタ(英語版)が設立されてからちょうど100年経った1910年5月25日に起工、1911年8月26日に進水した。モレノは1910年7月23日に起工、1911年9月23日に進水した。2隻とも建造に通常より時間がかかり、さらに海上公試でリバダビアの原動機の1つが損傷、モレノの原動機の1つが壊れたため更なる遅延が生じた。結局、リバダビアは1914年12月に、モレノは1915年2月にようやく正式に完成した。モレノの出港にも事故に見舞われ、艀1隻が沈み、モレノが2回も座礁してしまった。 チリのアルミランテ・ラトーレ(英語版)は1913年11月27日に進水した。ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、アルミランテ・ラトーレの建設も1914年8月に中止、9月5日にはアスキス内閣が同艦の購入を推薦、9日にそれが行われた。チリがイギリスとの「友好的中立」を維持したため、同じくイギリス製でオスマン帝国のレシャディエとスルタン・オスマン1世(元はブラジルのリオデジャネイロ号になる予定だった)と違って強制接収はされなかった。イギリスがチリとの友好を維持するのは、軍備産業に必要な硝酸塩をチリから輸入する必要があるためだった。それまでアームストロング社が建造した最大の艦船であったアルミランテ・ラトーレは1915年9月30日に完成、10月15日にイギリス海軍に編入され、そのまま第一次世界大戦に参加した。もう1隻の戦艦アルミランテ・コクラン(Almirante Cochrane)の建造は開戦とともに中止、未完成の船体は1918年2月28日にイギリスが購入して航空母艦に転用された。これは当時使える大型船体のうち、航空母艦に転用するのに大規模な改造を必要としないものがアルミランテ・コクランのものしかなかったためであった。しかし建造の優先度は低く、労使紛争もあって完成が遅れ、1924年にようやくイーグルとしてイギリス海軍に編入された。
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