マルメディ虐殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
詳細は「マルメディ虐殺事件」を参照 12月17日12:30にパイパー戦闘団はマルメディとリヌーヴィル(フランス語版)の間の高地、ボーネズ村(英語版)の近くでアメリカ第285砲兵観測大隊に遭遇した。小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、捕虜の約150人が武装解除され後方に送られるため十字路の近くの野原に8列横隊で立たされた。パイパーは捕虜監視のため自走砲と2輌のトラックを置いて更に進撃した。生存者の証言では、この部隊を率いていた将校がまず1人を射殺し、それを合図にしてトラックに搭載されていた2挺の機関銃が乱射されて捕虜多数が射殺され、ドイツ兵はさらに負傷している兵士に近づくと一人一人頭を撃ちぬいてとどめを刺し、最後は笑いながらアメリカ兵の遺体を射的の的代わりにして銃弾を撃ち込んでその場を後にしたという。生存者のなかにはドイツ軍の将校が「Macht alle kaputt」(皆殺しにしろ)と命令したのを聞いたというものもいた。 ただし、虐殺の様相については不確かな部分も多い。1945年1月の『星条旗新聞』に掲載された事件に関する記事は、内容にいささかの脚色・誇張が含まれていたが、最初期に行われた生々しい報道としてしばしば書籍や記事に引用されてきた。また、事件へのメディアの関心の高まりは、後年になって一部の生存者にさえ著書やインタビューにおける誇張した証言を行わせた。21人の生存者らが12月17日にマルメディにて行った報告は、もっとも事実に近い内容と考えられている。彼らはおおむね同様の証言を行った。彼らは投降した後にファイブ・ポインツ(現場となった交差点の通称)のすぐ南にある畑に集結させられ、ドイツ兵から機関銃とライフルで銃撃を受けたのだという。ほとんどの生存者が、一連の銃撃が始まる前にピストルの銃声を2度聞いたとしている。その後、ドイツ兵らが畑に入り、まだ生きている者を射殺したり、遺体を蹴ったり突いたりして生死を確かめるなどしていたという。それからドイツ軍は撤収していったが、車両上から手当り次第に銃撃を行っていく者もいた。生存者のうち、1人を除く全員が最初の銃撃より前に脱走を試みた者はいなかったと証言し、彼らが逃げようとしたのはドイツ兵が完全にいなくなったと思ってからのことだった。一方、ある証言者は最初の銃撃よりも先に脱走を試みて森に逃げ込んだのだと証言した。加えて、多くの生存者らの証言は、銃撃が始まる前に畑で大きな混乱が起きていたことを示唆している。ピストルの銃声が響いた時に混乱は頂点に達し、何人かのアメリカ兵は集団の後ろに逃れようと互いを押しのけ合い、この時にアメリカの将校が事態を収拾しようと「その場を保て!」(Stand fast!)と叫んでいたとする多くの証言がある。 この事件で84人のアメリカ兵が虐殺されたが、のちに遺体の検視が行われ、43体が頭部に銃弾による傷を負い、少なくとも3人が頭部に重度の打撃を受け、3人が押しつぶされ、9人がまだ頭の上に腕を上げている状態でこと切れているなど生存者の証言に合致するような状況であったが、逆にドイツ兵がアメリカ兵の遺体を物色して金品を強奪していったという証言に対しては、多くの遺体に物色された痕跡がないなど証言と矛盾する状況もあった。虐殺はバルジの戦いを取材していたアーネスト・ヘミングウェイら従軍記者によって報道され、あっという間にアメリカ全軍の末端の兵士にまでこの衝撃的なニュースは広まった。このニュースを聞いたアメリカ軍前線指揮官のなかには、親衛隊員は捕虜にはせず見つけ次第殺していいという命令をするものもあった。またこの虐殺によりアメリカ兵のなかでドイツ軍に降伏しても殺されるといった認識が広まることとなり、結果的にアメリカ兵を奮起させ、安易な投降を抑止し戦闘力を強化するといった逆効果を招いてしまったという指摘もある。 パイパーはその後も急進撃を続け、12月17日の午後にはアメリカ軍野戦指揮所があるリーニュヴィル(英語版)に到達した。しかし、リーニュヴィルのムーラン・ホテルにあった高射砲部隊の司令部要員の殆どはパイパー戦闘団が到着する前に街を脱出していた。パイパー戦闘団は逃げ遅れていた22人のアメリカ兵を捕虜とすると、そのうち8人を外に引き出して射殺してしまった。射殺を目撃したホテルのベルギー人支配人が執行を命じた親衛隊軍曹に抗議すると、軍曹は支配人を殴り倒し「そのベルギーの豚も入れて全員撃ち殺せ」と命じている。その後、銃殺される直前に親衛隊の将校が現れて、処刑命令は撤回されて支配人らは九死に一生を得ているが、支配人は親衛隊将校の気が変わらないように、ホテル所蔵の高級シャンパンやブランデーをパイパー戦闘団に飲ませて懐柔をはかっている。 リーニュヴィルから進撃を再開したパイパー戦闘団は、作戦開始してから初めてアメリカ軍戦車部隊と遭遇して戦車戦となった。パイパー戦闘団は2輌のM4中戦車と1輌のM10駆逐戦車を撃破したが、1輌のV号戦車パンターと2輌の装甲車を撃破された。その後も進撃を続けて、午後5時にはスタブロー(英語版)を望むアンブレブ川(英語版)の対岸に到達していた。パイパーは夜陰に紛れて橋梁を渡ってスタブローを急襲する計画を立てたが、先行していた戦車が地雷で擱座したため、アメリカ軍に発見されたと考え、夜襲をあきらめて明日の早朝にスタブローを攻撃することとした。不眠不休の進撃で指揮官のパイパー自身が疲労困憊していたことや、後続の支援部隊が交通渋滞もあってついてこれず、パイパー戦闘団は孤立していたこと、また、パイパーはこれまでの実績から1日に50マイルは進撃可能と考えており、あと42マイルまで迫っていたミューズ川には翌日には到達できると見込んだことなど、総合的な状況判断によって、この攻撃延期を決意したものであったが、この攻撃延期の判断がのちにパイパー戦闘団の運命を変えることとなった。連合軍はスタブローを突破されると、ウェルボモン(フランス語版)が危機にさらされ、ウェルボモンも突破されれば、ミューズ川河畔の重要拠点リエージュまでは一本道であることから、パイパーの急進撃に危機感を抱いている。
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