議論の集約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:42 UTC 版)
1944年9月、アメリカ合衆国陸軍長官ヘンリー・スティムソンは陸軍省内で戦争犯罪政策の検討を行った。この検討によってまとめられた意見は「人道に対する罪」を戦争犯罪とする、また国際法廷の設置に同意するなど、UNWCCの意見に近いものであった。また、この中でドイツ国家、ナチ党や親衛隊が民衆破壊を犯す共同謀議(conspiracy)を行ったとし、犯罪を行った組織に属する個人に有罪を宣告できるという「共同謀議理論」を示している。 スティムソンと陸軍省はこの路線を主張したが、国務省は従来の路線を崩さなかった。また海軍省も、現時点での共同謀議概念導入は日本の抗戦意欲を高めるとして陸軍省の意見には否定的であった。しかし12月17日にベルギーでマルメディ虐殺事件が発生すると、親衛隊の残虐行為を阻止するべきという意見が政府内で強まり、陸軍省の案が主導権を持つようになった。1945年1月3日、ルーズベルト大統領は共同謀議理論の導入に同意し、1月22日には国際法廷設置が政府内で同意された。ただしこの同意が正式な結果となったのはハリー・S・トルーマン大統領の就任後だった。 しかしイギリス政府はなお戦争指導者を裁判に掛けることには反対していた。このため2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦によるヤルタ会談において国際軍事裁判所設置が具体的に言及されたものの、この時点で3国の外相により検討する事が決められたのみであった。しかし4月30日のヒトラーの自殺によって、ヒトラーが法廷で演説する懸念が無くなったことを一因として、アメリカの提案を受け入れた。 その後、度重なる折衝を経て同年6月から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が開催された。同年8月8日ロンドンでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4カ国代表により、戦犯協定が調印され国際軍事裁判所憲章が定められた。
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