マサチューセッツ植民地総督とは? わかりやすく解説

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マサチューセッツ植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:11 UTC 版)

トマス・パウナル」の記事における「マサチューセッツ植民地総督」の解説

パウナルは8月初めにボストン到着した暖かく歓迎され8月3日任務就いたその後すぐに戦争関わる危機突入することになったフランス軍ニューヨーク北部ウィリアム・ヘンリー砦向かって進軍しているとの報告があり、そこの軍隊指揮官民兵隊に非常収集掛けていた。パウナルは民兵隊を組織するために精力的に動いたが、その掛け声あまりに遅すぎた。ウィリアム・ヘンリー砦短時日包囲後陥落しその後インディアンによるこの戦争では最悪級の残虐行為起こった1757年9月、パウナルはニュージャージー植民地旅してジョナサン・ベルチャー総督葬儀出席し帰りニューヨーク立ち寄ってラウドン会見した総司令官であるラウドンは、マサチューセッツ植民地議会ラウドン出した様々な要求に対して十分に応えなかったことに不満であり、パウナルにその責任押し付けた。パウナルは民事軍隊介入することに反対し、ラウドン自分の考え実行するために使った脅しは、総督指導していくためには必要であるとしても、植民地議会を動かすためではないと主張した。その会見辛辣なものとなり、ラウドンは後にパウナルの姿勢厳しく批判する手紙ロンドン送り自分の考え政府の「高飛車な」ものにすることを求めたラウドンイギリス軍ボストン市民の家を宿とするよう要求したことに対して植民地議会からの反対に遭遇し援軍用意して行軍させ、力づく宿舎確保する脅した。パウナルは植民地議会がある面ではラウドン要求応ずるよう要求し最後宿屋など公的な空間兵士泊めることを承認する法案署名した。この法案不人気であり、パウナルは、地元新聞からラウドンとその政策支持した否定的に報道された。しかしパウナルとラウドンやり取りは、パウナルが植民地立場痛切に感じ取っていたことを示していた。「この植民地住人イギリス生まれ臣民が持つ自然権付加されている。...これらの権利享受することは、...彼らが抵抗することを励まし勇気づける...残酷な侵略してくる敵に対して」と記した。パウナルは王室指名する総督議会の関係について同様にはっきりしていた。「総督民衆を「追い立て」られないことについて民衆を「導く」努力をせねばならず、一歩一歩足場得られる」ように彼らを導かねばならない。」と記した。パウナルがこれらの考え行動したので、辞任提案された。しかし、ラウドンはパウナルにその地位留まるよう進言した。パウナルは後にイギリス議会法案である1765年宿舎法の一部執筆したが、その法の執行植民地広く抵抗された。 1758年1月、パウナルはイギリスウィリアム・ピット宛てて数通の手紙を書き植民地政府イギリス軍隊文民管理当局の間の関係を取り巻難し問題説明した具体的にロンドン戦争のために植民地遣う費用をより多く支払うよう提案した。この考え実行するには、戦争残り期間で民兵徴兵数をかなり増やすことになり、1758年作戦だけでもマサチューセッツから7,000名を徴兵することになった。パウナルは民兵体系改革を行う法案議会通させることができた。この法案は、パウナルがより柔軟費用かからない組織を得るために求めた変更全て含んでは居らず、地方役人の手民兵に関する権限多く集中させるのだった総督支配権減らしていた)。 これらの改革にも拘わらず民兵徴兵難しく徴兵隊が嫌がらせを受け、石を投げられることも多く幾つかの場合には暴動起きた。しかしパウナルは植民地割り当てられただけの民兵立ち上げ成功し戦争遂行精力的に支援したことで、ウィリアム・ピット貿易委員会、また軍隊新し総司令官ジェームズ・アバークロンビーからの称賛得た。パウナルはこの成功力を得てジェフリー・アマースト将軍に、ペノブスコット湾でフランス軍動き出す可能性対抗して砦を建設するというアイディア提案した。その地域1755年以来度々フロンティア対す襲撃繰り返されており、1758年春にセントジョージ対す大きな攻撃があったばかりだった。このアイディアはその地域への大きな遠征にまで発展しアマースト承認得ただけでなく、議会承認得た。パウナルが遠征率い、パウナル砦の建設監督し同年大きな成功数えた。その成功でこの地域には小さいながらランドラッシュ起こった。 パウナルの政権初期幾分障害があったが、その植民地における人気が、在任長くなるに連れて大きくなった。多く漁師需要について熱心に取り組み軍事当局説得して重荷になるお役所仕事排除させ、地元商人とも付き合った。トマス・ハンコックとその甥のジョン・ハンコックが行事業投資しており、マサチューセッツ離れる時は、その商人集団称賛された。パウナルは独身であり、女好きで、社交界もてはやされたとされている。信仰心強くなかったが、定期的にイングランド国教会礼拝出席した。ただし、土地会衆派教会礼拝にも度々訪れていた。民兵隊の徴兵配置物資調達取り巻異論の多い問題をうまく繕い軍隊植民地要求の間で妥協点交渉した。しかし、副総督トマス・ハッチンソンとの関係は歪が生じた。この二人互い信頼することがなく、パウナルは内部評議会会合からハッチンソン定期的に排除しその代り例え民兵徴兵問題扱わせるなど、任務与えて派遣していた。パウナルが植民地を去る前に最後に行ったことは、長くハッチンソン敵対者だったジェイムズ・オーティス・シニアを議会議長指名することを承認したことだった。 1759年後半、パウナルはウィリアム・ピット手紙書き、「私は(イングランドで)役立てることがあるかもしれない」とマサチューセッツ去ってイングランド戻してもらうことを依頼した伝記作者のジョン・シュッツは、パウナルの要請の下にある真の理由戦争の後半で大きな軍事行動から除外されたことからくる憤懣関連し、また征服されヌーベルフランス軍政府司令官というようなより重要な地位得たいという願望があった可能性もあった、と推測している。歴史家バーナード・ベイリンは、トマス・ハッチンソンのようなシャーリー支持者決定的に嫌悪し信用しなかったことと、そのためにマサチューセッツ政治での内紛要請繋がったのであり、軍隊指揮官との難しい関係も災いしたという意見である。その理由何であれイギリス王ジョージ2世死去に伴い貿易委員会植民地役職者入れ替えようと考え、パウナルにはサウスカロライナ植民地総督地位与えられ、まずはイングランドに行く許可与えられた。民兵徴兵問題ボストン市大火後始末必要性のためにボストン出発が遅れ、実際に出発したのは1760年6月になってからだった。

※この「マサチューセッツ植民地総督」の解説は、「トマス・パウナル」の解説の一部です。
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