ハーバード大学で幻覚剤研究
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「ティモシー・リアリー」の記事における「ハーバード大学で幻覚剤研究」の解説
1959年イタリア、バークレー大学時代の友人で創造性の心理学の権威であるフランク・バロンがマジック・マッシュルームを食べて神秘的な体験をしたという話をしたが、リアリーはこの話についていけなかった。フランク・バロンは、高度な心理学シンクタンクであるハーバード人格研究センターの所長のマクリーランドがイタリアにいるので仕事を紹介してもらえるかもしれないと教えてくれた。マクリーランドに、患者をあるがままに扱う対話的な行動変容について話したところ、アブラハム・マズロー、カール・ロジャーズによる同じような心理学の先端研究が行われているということでハーバード大学に教職を得た。すぐにリアリーの推薦でフランク・バロンもハーバード大学に教職を得る。IDPによる人間性心理学的な、診察室ではなく通常の生活の中で患者中心の平等主義的な行動変化をもたらすアプローチは興味を集め、リチャード・アルパート助教授を含めた何人かが配属された。期待されたアプローチであったが、時間をかけて何度も条件づけを行う必要があった。 1960年夏、メキシコ大学の人類学者のゲルハート・ブラウンが、アステカ文明のナワトル語の文献にマジック・マッシュルームについて言及があるが、これを試さないかともちかけた(当時、このようなキノコはカトリック教会による徹底的な弾圧によって主要な植物学者にさえ存在が否定されていた)。リアリーが試したところ、まず古代文明の様々な場所を旅し、次に生物の進化の過程を辿るという幻覚体験が起こった。 行動を変化させる鍵は自己洞察であると考えていたが、キノコによって洞察を瞬時に行うことができた。キノコはこれまでの自分の殻を一挙に解放してしまった。リアリーは体験に衝撃を受け、意識が拡張される脳の回路とそれを起こす薬、その意義、一度つながればその感覚を再現できる意識の回路(フラッシュバックという)の研究を行うことにする。 スイスのサンドス研究所のアルバート・ホフマンがキノコからシロシビンを合成していたので入手し、オルダス・ハクスリーも参加し脳に関する研究を開始する。ハクスリーは、これは『聖書』にある禁断の実で、意識の管理者は研究を阻止するだろうから、ゆっくり研究をすすめるように忠告した。当初は35人ほどで、ハーバード・サイケデリック・リサーチ・プロジェクトを組織し、内面の探求と精神を診断し変化させる探求を行った。1960年12月、アレン・ギンズバーグが意識変革について学んできたので研究について知りたいといって訪ねてきて、一緒にシロシビンを服用して平和な世界をつくることを構想し、そのために脳の共感回路につなげる神経学上の革命を起こし、意識訓練センターをつくるという計画を考え、実践に移していった。 ドラッグは、感覚を遮断するアイソレーション・タンクよりも、化学的に神経に作用するため再刷り込みの作用が強いと思っていた。再刷り込みの可能な状態で神経細胞を刺激した価値観を何でも刷り込むことができるので、自分のなりたい人間になるよう自分で神経を制御すべきだと主張していた。1961年3月には、コンコード刑務所で受刑者と大学の学生を交えたシロシビンを使った集団療法的なセッションを行い、2年で参加者の9割が出所し、再犯率を70%から10%に低下させ、生き方を変化させることが実証されたと思った。1961年8月、応用心理学の国際会議で、人間の行動は文化に依存したゲームであり、家族ゲームや国家ゲーム、ティモシー・リアリーというゲームをプレイしているが、このゲームを断ち切る最も有効な方法は悟りを誘発するドラッグであると発表した。 1943年にアルバート・ホフマンがLSDを発見した。これは強力な幻覚作用をもたらし、1950年代頃から精神医学では意識の問題を解明する切り札として期待された。 1962年春、LSDを通常量の100倍摂取し、神秘主義者になった医師のマイケル・ホリングスヘッドが訪れ、シロシビンはLSDに比べてたいしたことがないと嘲笑したので、リアリーはLSDは兵器として研究され評判が悪いと考えていたが試すことにする。この体験は、すべてが自分の意識が作り出したものに過ぎないことを悟らせ、人々がアメリカに大量生産された操り人形であることに気づき、そして意識をエネルギーがダンスしているような状態に導き、生涯で最も強烈で、生き方を変えてしまうものであった。 リアリーはLSDを研究に持ち込んだが、ケルマン教授らによる反対派がLSDが危険なドラッグであると主張して反対運動が起こった。衝突を避けるために、アンドリュー・メロン家の女性資産家のペギーに出資をしてもらい、メキシコのジワダネホでサマートレーニングキャンプを行うことにした。ジワダネホへ出発する前、反対運動の一件で麻薬取締局から検査官が派遣され知り合いになったが、彼がアメリカ中央情報局(CIA)が2500万ドルの予算でLSDの研究を行っているという極秘情報を教えてくれた。これは後に洗脳の研究であるMKウルトラ計画として知られるが、計画のためのフロント企業の一つからケルマン教授は1960年に助成金を受けていた。また、このころ謎のフェミニストのメアリー・イーノ・ピンチョット・マイヤー(1921-1964)が、LSDを洗脳に使おうとしている人がいるけど、平和のために使おうとしている人もいるからLSDのセッションのやり方を教えて欲しいと連絡をとってくる。 1962年夏、メキシコのサマーキャンプでは、エヴァンス・ヴェンツによる『チベット死者の書』の英訳本を幻覚版に翻訳しマニュアルとして用いた。共同研究者のリチャード・アルパートは幻覚剤の体験によって、神秘主義の文献を真実であることとして理解できるようになり、なかでも『チベット死者の書』が体験を正確に描写した中心的な本であることが分かった。このときは幻覚剤の代わりにアサガオのリゼルグ酸アミドを使い、効果は周囲の人の行動で決まるセッティング理論を検証した反対派の圧力が大きいため、大学を離れて、東洋の研究家のアラン・ワッツやヒューストン・スミスらともに幻覚剤のセッションを行う機関を設立することにした。「精神的自由のための国際財団」(IFIF:International Foundation for Internal Freedom) を設立し、文化によって習得した精神からの自由を訴えた。『サイケデリック・レビュー』誌を出版し、国内全域に訓練センターの設置を計画し、世界最大のドラッグ研究機関、ドラッグ製造所になることが予測され、『ハーバード・レビュー』にお別れの挨拶をのせハーバードを去ることにした。リアリーは、武器商人や第三次世界大戦を画策しようとする者による歴史の流れを変革しようと確信していた。
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