ハーバード大学極東学会会長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:14 UTC 版)
「エドウィン・O・ライシャワー」の記事における「ハーバード大学極東学会会長」の解説
1946年(昭和21年)にはハーバード大学に戻り、極東学会の副会長、会長を歴任する。なお、ハーバード大学時代の教え子にはジミー・カーター政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビグネフ・ブレジンスキーらがいた。1948年(昭和23年)には人文科学顧問団の一員として再び連合国の占領下の日本へと戻り、ダグラス・マッカーサーと会談した。 なお、1950年代前半にアメリカを襲った「赤狩り」旋風では、ハーバード大学の同僚である上記のノーマンや都留重人らがターゲットとなったが、この2人のようにイデオロギー的に偏りがない上に、中国史研究者であったものの、国務省では日本や朝鮮の政策にのみかかわっていたこともあり難を逃れた。
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