ハーバード大学講師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:14 UTC 版)
「エドウィン・O・ライシャワー」の記事における「ハーバード大学講師」の解説
1933年(昭和8年)には、ハーバード燕京研究所所長で当時数少ない日本文学者であったセルゲイ・エリセーエフより、フランスと日本・中国で研修を行った後、エリセーエフが設立を計画している極東言語学部において日本語の講師として教鞭を取ることを依頼される。同年パリにある国立現代東洋語学校へ向かい、日本語と中国語を学んだ。 ヨーロッパ留学中に、オランダやオーストリア、ドイツ、チェコスロヴァキア等を旅し、ドイツでは、レーム事件の現場に居合わせている。このヨーロッパ旅行中、オーストリアのザルツブルクを訪れた際に、丘の上の古城から見たザルツブルクの風景が、日本の城下町に似ている事に気付き、日本とヨーロッパの歴史の類似性、及び、日本の近代化における封建時代の重要性に気がついたと、後年、回想している。(NHK『日本への自叙伝』)1935年(昭和10年)には日本へと移る。
※この「ハーバード大学講師」の解説は、「エドウィン・O・ライシャワー」の解説の一部です。
「ハーバード大学講師」を含む「エドウィン・O・ライシャワー」の記事については、「エドウィン・O・ライシャワー」の概要を参照ください。
- ハーバード大学講師のページへのリンク