ハーバード大学から浅野財閥へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 05:34 UTC 版)
「小松隆」の記事における「ハーバード大学から浅野財閥へ」の解説
さらにハーバード大学で国際法を学び修士号を得て1912年(明治45年)卒業した。卒業式では卒業生代表として演説したが、これは日本人では初めてだった。大学図書館でたまたま浅野良三(浅野財閥総帥浅野総一郎の次男)に出会い終生の友となった。帰国後は浅野良三の親戚である穂積家に身を寄せ、1913年(大正2年)12月に浅野財閥の東洋汽船に入社し、浅野総一郎社長の秘書になった。1920年には、東洋汽船の子会社で、浅野良三が社長をしていた大正活動写真(大正活映)の取締役を務めた。1922年(大正11年)6月から1926年(大正15年)10月まで東洋汽船のサンフランシスコ所長を務めた。1928年(昭和3年)帰国し、1929年(昭和4年)から浅野財閥の浅野造船所に勤務したが、1939年(昭和14年)に、鶴見製鉄造船(浅野造船所が改称したもの)と日本鋼管が合併したので、日本鋼管の常務取締役に就任した。それと並行して、浅野総一郎の顧問として、セメント・水力発電・埋立などの事業にに関与した。1937年(昭和12年)頃は、鶴見製鉄造船の常務取締役、東洋紙袋と東洋再製袋の取締役、浅野カーリットの監査役を兼務した。
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