ハワイ事変(ハワイ革命)
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「ハワイ併合」の記事における「ハワイ事変(ハワイ革命)」の解説
1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた。これに対し、王党派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。反対集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった。リリウオカラニは宮殿外で待機する群衆に、憲法の施行をしばらく延期することを発表した。 翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。 1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパー(英語版)によりハワイ王国の終結および暫定政府の樹立が宣言された。ハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。 リリウオカラニはスティーブンスに特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。 リリウオカラニはこのような事態を受けて、ドールに対し、 私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。……(中略)……軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。 紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ という声明文を送付した。 親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国などの国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。 しかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。 当時、第24代アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのグロバー・クリーブランドは、1890年の「フロンティア消滅」を受けてアメリカの「マニフェスト・デスティニー」は既に果たされているという認識に立っており、海外進出には抑制的で、スペインからの独立運動のつづくキューバにも不介入の方針を採った。 クリーブランド大統領は、ハワイの状況視察のためジェームズ・ヘンダーソン・ブラント(英語版)を現地に派遣した。ブラントは、親米派グループが君主制を転覆させるような過激な行動をとるべき口実は何も存在しなかったこと、一外交官が軍隊を上陸させて友好的な政府を倒す手助けをしたことを大統領に報告し、ハワイ政庁の星条旗を下ろし、アメリカ海兵隊を船にもどすよう指示した。クリーブランドはブラントの報告を受け、革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭を決め、新任公使にアルバート・ウィリスを任命した。これに対し、当時のニューヨークの新聞にクリーブランドが当時の流行歌をもじって「リリウオカラニはわたしの恋人」と歌っている漫画が掲載されるなど、多くのアメリカ国民は革命家たちやスティーブンスに同情を寄せた。 新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニが革命家たちを処罰しないことを条件に復位させるというクリーブランドの指示のもと、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との見解を表明した。しかし、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府首脳の死刑を求める」の文字が躍った。この捏造報道はその後訂正がなされ、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。しかし現実には、リリウオカラニには死刑であれ恩赦であれ、そうした処分を実行する力がもはやなかった。 こうした諸状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合は不可能であると判断し、12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」との声明文を発した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。アメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権を与えず、公職勤務を禁じる一方、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。
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