ハワイ事変とは? わかりやすく解説

ハワイ事変(ハワイ革命)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:19 UTC 版)

ハワイ併合」の記事における「ハワイ事変(ハワイ革命)」の解説

1893年1月14日サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織つくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部市民集会を開く旨呼びかけた。これに対し王党派閣僚反逆罪の適用検討したが、衝突避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会イオラニ宮殿で行うことが決定された。反対集会目的は「リリウオカラニによる新憲法公布しない」という声明発表することによって、これ以上混乱防止しようというものであったリリウオカラニ宮殿外で待機する群衆に、憲法施行をしばらく延期することを発表した。 翌1月16日、ホノルルライフルズで開始され集会サーストン女王糾弾し、自由の獲得市民訴えた。この動き呼応しスティーブンス米国軍ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対しホノルル非常事態鑑みアメリカ人生命および財産安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港上陸した1月17日サンフォード・ドール新政府樹立準備のため、判事辞任した午後2時、政府庁舎に「公安委員会一同集結すると、ヘンリー・E・クーパー英語版)によりハワイ王国終結および暫定政府樹立宣言された。ハワイ王国政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され戒厳令布かれた。ドール暫定政府代表として各国外交使節団およびリリウオカラニ対し暫定政府樹立通達した。 リリウオカラニスティーブンス特使派遣しアメリカ暫定政府承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府承認されアメリカハワイ王国存在認めない」と回答したリリウオカラニこのような事態受けてドール対し、 私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国暫定政府樹立求め特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。……(中略)……軍隊衝突と、おそらく生命喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府事実提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消してハワイ諸島立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限放棄いたします紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ という声明文送付した親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後ドイツイタリアロシアスペインスウェーデンオランダデンマークベルギーメキシコペルーイギリス日本中国など国々暫定政府事実上政府として承認したハワイアメリカ保護下に置くよう併合交渉進めていた暫定政府対し2月1日スティーブンス米国公使としてその要求承認しハワイ政府庁舎星条旗掲揚された。 しかし、リリウオカラニ抵抗アメリカ国内における女王支持派存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法対す世論反発などにより、併合見送られた。 当時、第24アメリカ合衆国大統領就任したばかりのグロバー・クリーブランドは、1890年の「フロンティア消滅」を受けてアメリカの「マニフェスト・デスティニー」は既に果たされているという認識立っており、海外進出には抑制的で、スペインからの独立運動のつづくキューバにも不介入方針を採った。 クリーブランド大統領は、ハワイ状況視察のためジェームズ・ヘンダーソン・ブラント(英語版)を現地派遣したブラントは、親米派グループ君主制転覆させるような過激な行動をとるべき口実は何も存在しなかったこと、一外交官軍隊上陸させて友好的な政府を倒す手助けをしたことを大統領報告しハワイ政庁星条旗下ろしアメリカ海兵隊を船にもどすよう指示したクリーブランドブラント報告を受け、革命家たちの行動を「ホノルル無法な占拠」と批判しスティーブンス公使更迭決め新任公使にアルバート・ウィリスを任命した。これに対し当時ニューヨーク新聞クリーブランド当時流行歌をもじって「リリウオカラニはわたしの恋人」と歌っている漫画掲載されるなど、多くアメリカ国民革命家たちやスティーブンス同情寄せた。 新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニ革命家たちを処罰しないことを条件復位させるというクリーブランド指示のもと、暫定政府取り消し女王復位の道を模索した1893年11月4日ウィリスリリウオカラニ軟禁されているホノルルへ赴き、国家転覆させた反逆者処遇どのように希望するかを確認したリリウオカラニは「法律上死刑であるが、恩赦認め国外追放止めるべきである」との見解表明した。しかし、後日新聞紙面上には「女王暫定政府首脳死刑求める」の文字躍った。この捏造報道その後訂正がなされ、ウィリス12月20日ドール対し、「リリウオカラニ正式なハワイ統治者であることを認め現地位と権力全てから退くこと」というクリーブランドメッセージ伝えた。しかし現実には、リリウオカラニには死刑であれ恩赦であれ、そうした処分実行する力がもはやなかった。 こうした状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合不可能であると判断し12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権要求内政干渉にあたる」との声明文発した。さらに、暫定政府恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し1894年7月4日新憲法発布新国家成立宣言した共和国大統領にはサンフォード・ドール就任したが、結果としては、ハワイ共和国最初で最後大統領となったアメリカ独立記念日公布されハワイ共和国憲法多くの点でアメリカ合衆国憲法似ていた。新憲法は、東洋人対し選挙権市民権与えず公職勤務禁じ一方白人団体多くの点で権力保持できるよう配慮されていた。

※この「ハワイ事変(ハワイ革命)」の解説は、「ハワイ併合」の解説の一部です。
「ハワイ事変(ハワイ革命)」を含む「ハワイ併合」の記事については、「ハワイ併合」の概要を参照ください。

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