王党派と日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:19 UTC 版)
ハワイ事変に際し、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。日本政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は1893年(明治26年)4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約であった。 日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。この入港は米国軍艦のボストンなど三艦が停泊中の出来事であった。この行為については、女王を支持する先住ハワイ人たちが涙を流して歓喜したと言われる。日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させている。しかし、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。日本の軍艦派遣は、米布併合の牽制には一定の成果をあげたものの、かつての親日的なハワイ王国政府を復活させることはできなかった。 1895年1月6日、王政復古を目指し、ロバート・ウィリアム・ウィルコックスをはじめとする先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起した。ワイキキでの小さな衝突が発端であった。2週間で武装蜂起は鎮圧されたが、政府軍にも死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。この蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後はハワイ共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。 1897年4月7日、駐ハワイ公使島村久は、外相大隈重信に軍艦派遣を要請し、4月20日、軍艦浪速はハワイにむけ出発した。5月11日、公使島村はハワイ外相へ日本移民上陸拒絶にかんし抗議し、1898年7月27日、賠償金7万5000ドルで解決した。6月17日、駐米公使星亨は、アメリカのハワイ併合阻止のため移民問題を名目にハワイ占領の意見を具申した。6月21日、外相大隈は、ハワイ併合は太平洋の現状を変動し、日本の権益を危うくする旨アメリカ公使に抗議した。6月25日、アメリカ国務長官は、公使星に、日本の正当な権益は阻害されないと回答した。
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