王党派での経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:29 UTC 版)
「ジョージ・マンク (初代アルベマール公)」の記事における「王党派での経歴」の解説
1608年、デヴォンシャーのマートンでサー・トマス・マンクの次男として生まれた。軍人となり、1625年のバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズによるスペインのカディス遠征を始め、1627年の対フランス戦争にも従軍してラ・ロシェル包囲戦におけるユグノー(プロテスタント)救援のためレ島遠征に参戦、1629年にオランダ軍に加わり八十年戦争でスペイン軍と戦い統率力を称賛され、1637年のブレダ包囲戦で勇敢に戦い注目された。1638年にドルトレヒト議会と諍いを起こしてイングランドへ帰国。ニューポート連隊中佐の職を得た。 イングランドではチャールズ1世の失政で反乱が頻発、マンクはそれらの反乱鎮圧に駆り出され、1639年と1640年にスコットランドで勃発した主教戦争と1641年のアイルランド同盟戦争では、オーモンド公ジェームズ・バトラー率いる鎮圧軍隷下のレスター卿連隊(Lord Leicester's regiment)の連隊長としてアイルランドへ出兵した。レスター伯ロバート・シドニーはマンクの冷静沈着さを称賛、空席となっていたダブリン総督の座をマンクに勧めた。 しかし、チャールズ1世はマンクを採用せず別人を任命、マンクに就任を放棄させた。この行為からチャールズ1世に不満を抱くようになり、第一次イングランド内戦では王党派に属したが、1644年に王党派の軍が議会派司令官のトーマス・フェアファクスにナントウィッチの戦いで敗れると捕虜となりロンドン塔へ投獄、2年後の1646年に釈放され議会派へ鞍替えした。
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