王党派の軍人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 02:13 UTC 版)
「ウィリアム・レッグ (イングランド将校)」の記事における「王党派の軍人」の解説
レッグの父エドワード・レッグ(Edward Legge)は、親戚であるマウントジョイ男爵チャールズ・ブラウント(en、後のデヴォンシャー伯爵)の影響力によってアイルランド南部マンスター地方の副総裁を務めており、母メアリー(Mary)は、キルデア県モイ渓谷(en)のパーシー・ウォルシュ(Percy Walsh)の娘であった。父は1616年に死去し、レッグは祖父であるダンビー伯爵ヘンリー・ダンヴァース(en)によってイングランドへ移された。その後レッグは大陸ヨーロッパで軍務の経験を積んだ。 1638年8月7日、レッグはニューカッスルとハルの城塞化の状況を調査し、両都市に攻勢をかけるよう命じられた。その後准男爵ジョン・ホッタム(en)に代えてレッグをハルの司令官とする提案が出された際には、ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースが強硬に反対した。結局、レッグは造兵廠長官(master of the armoury)に任じられ、第1次主教戦争の際には兵站部副官(lieutenant of the ordnance)を務めた。 1641年春、レッグは、議会に対抗して国王チャールズ1世を支援するために陸軍を動かそうとする陰謀(陸軍陰謀事件(英語版))に巻き込まれた。レッグは5月18日に発覚した第1次陸軍陰謀事件に関連して証人として調査を受けたが、この件には深くは関わっていなかった。しかし数週間後、国王の信任を得たレッグは、議会派(円頂党)の指導者たちを厳しく非難する請願に陸軍関係者の署名を集め、いわゆる第2次陸軍陰謀事件において主導的な役割を果たした。1642年1月、国王はハルの奪還を目指し、ニューカッスル伯(後のニューカッスル公)ウィリアム・キャヴェンディッシュを総督に任じ、レッグを派遣してハルを制圧させようとしたが、この試みは失敗に終わった。
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