王党派へ転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:46 UTC 版)
「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の記事における「王党派へ転向」の解説
盟約派内の対立は内戦になったばかりか、1642年から始まった第一次イングランド内戦の余波がスコットランドにもおよび、モントローズ伯ら穏健派は王党派についた。一方のアーガイル侯・リーヴェン伯ら強硬派は議会派と連携することを計画、1643年9月25日にアーガイル侯の主導で盟約派と議会派が厳粛な同盟と契約を締結、リーヴェン伯率いる援軍がイングランドへ派遣された。対するモントローズ伯はスコットランドが盟約派の下で反王党派が優勢になる中、勢力が弱い王党派に属し孤立していたが、同盟締結前の2月にイングランドへ行きヨークにいた王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスと接触しスコットランドでの蜂起を提案した。 だが他の王党派とそりが合わず、オックスフォードで滞在していたチャールズ1世の側近で因縁があるハミルトン公と対スコットランド戦略で対立、ヘンリエッタ・マリアとも不仲になりヨークを離れ、一旦スコットランドに帰国した。そこで聞いた盟約派と議会派の同盟と援軍の話を国王に伝えるため再びイングランドへ行き、オックスフォードでチャールズ1世の側近となり、ハミルトン公と弟のラナーク伯爵ウィリアム・ハミルトンを讒言で失脚させ、代わりに王党派に加わったアイルランド・マクドナルド氏族首長でアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)と共にスコットランド挙兵計画を練り上げた。 1644年、チャールズ1世から侯爵に昇叙されたモントローズ伯はスコットランド総督に任命され、1月から北イングランドで挙兵の準備を進めた(アントリム伯はアイルランドで徴兵)。3月に主教戦争で敵だったハントリー侯が再びアバディーンを占領すると呼応、徴集した兵を率いて国境を越えスコットランドへ侵入した。ところが盟約派が素早く軍を差し向けたためハントリー侯は逃亡、モントローズ侯もイングランド国境のカーライルへ撤退した。王党派の蜂起は防がれアイルランドからの援軍も来ない中カーライルで待機、7月にアントリム伯が親戚のアラスデア・マッコーラ(英語版)と共に1100人と少数ながら援軍を連れてスコットランドに上陸すると、僅か3人だけで変装して再び越境、北上した末にスコットランド中部でテイ川流域の町ブレア・アソル(英語版)でアントリム伯らと合流、8月に国王の軍旗を掲げ改めて挙兵した。
※この「王党派へ転向」の解説は、「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の解説の一部です。
「王党派へ転向」を含む「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の記事については、「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の概要を参照ください。
- 王党派へ転向のページへのリンク