王公族の一員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:39 UTC 版)
喪が明けた1920年(大正9年)4月28日、李垠と婚姻した。厳密には非皇族男性への降嫁であるが、婚姻に際し、大正天皇の「御沙汰」によって、女王の身位を保持することとなった。 婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。婚礼に際しては、和装(十二単)・洋装に加え、朝鮮服も準備された。方子自身は当時を「夢のようにしあわせな日々」と回想し、1921年(大正10年)、第一子・晋が誕生する。 1922年(大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説がある一方で、日本軍部による毒殺説も流布されている。第一子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・李徳恵の身辺を親身に世話した。 1927年(昭和2年)5月から翌1928年(昭和3年)4月まで、夫妻は欧州を訪問した。横浜を出発し、7月4日にフランス入りして第1次世界大戦の要地を訪問した。8月6日からの英国訪問では、皇太子裕仁親王の欧州訪問時と同じく国王ジョージ5世と王妃メアリーと対面し、垠は英語で、妃方子女王はフランス語で、それぞれ通訳なしで会話した。10月にオランダに渡り、大戦の敗戦国であったドイツ及びオーストリア、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、チェコスロバキア、イタリアそしてヴァチカンを訪問した。旅行中は「Prince/Princess RI」の称号を用い、また北白川宮成久王夫妻(北伯爵)や東久邇宮稔彦王夫妻(東伯爵)同様、「伯爵李垠」「伯爵夫人李方子」の通称を用いた。 その後、1923年(大正12年)と1930年(昭和5年)の計2度の流産を経て、1931年(昭和6年)12月、第二子・玖が誕生した。
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