王公家軌範への影響
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朝鮮併合に際し、韓国併合ニ関スル条約第3条により、高宗、純宗、皇后尹氏、皇太子李垠の4名が礼遇されることが明記された。さらに「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為ス詔書」により称号(李王、等)と敬称(殿下)が定められ、高宗は徳寿宮李太王、純宗は昌徳宮李王となるとともに、王妃尹氏、王世子李垠(徳恵の異母兄)の計4名が、詔書に該当する「王族」であった。なお同時に発布された「李堈及李熹ヲ公ト為スノ詔書」では「公族」についても定められ、公と公妃以外は殿下の称号や特権を受けられなかった。 徳江の幼少期当時は、上記以外の李王家(日本における王公族)の法的扱いの細部が未確定であった。朝鮮総督寺内正毅は、李太王が一代限りの身分であることから、その女子である徳恵を皇室親族令に準じて扱う必要はない考えを有していた。李太王は遅くにできた徳恵を溺愛し、徳恵を王族とするために寺内総督に働きかけた。李太王は、1919年(大正8年)に薨去した。 典憲二元主義の下、伊東巳代治は王公族の法規を皇室典範に基づく法体系である皇室令に組み込むことを主張していた。最終的に1926年(大正15年)12月1日、大日本帝国憲法に基づく法体系の下「王公族ノ権義ニ関スル法律」(大正15年12月1日法律第83号)を根拠として、「王公家軌範」(大正15年12月1日皇室令第17号)が成立し、この中で、王公家の構成員の身分も定義されている。 そして、その附則には次のようにある。 王公家軌範 附則 第二〇三條 故李太王ノ子ニシテ王家ニ在ル者ハ之ヲ王族トス 本令中太王ノ子ニ關スル規定ハ前項ノ王族ニ之ヲ準用ス この条項に該当するのは、徳恵ただ一人であり、徳恵は王族としての待遇を受けられることとなった。ただし王族の直系でないため、「殿下」の敬称は受けられず、公族同様の「姫」となった。
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