王公族として
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1911年(明治44年)9月に日本陸軍の陸軍中央幼年学校の第2学年時に編入(14期)する。小柄な体型のため器械体操を苦手としたが、音楽や武道を得意とし、同期生から敬愛を集めた。陸軍士官学校(29期)へ進み、この際には、品行で20点満点中19.7点の評価を受けるほど、模範的な学生だった。 1915年(大正4年)6月5日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され陸軍将校となった。1916年(大正5年)8月に皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子:方子女王と婚約する。この結婚は方子の結婚先を探していた方子の母伊都子妃の要望によるものであり、「都合上」天皇の命令により結婚することとされた。1919年(大正8年)1月21日、挙式4日前に李太王(高宗)が薨去したため、結婚は延期された。1920年(大正9年)4月28日に結婚式が行われた。結婚式では、結婚が朝鮮独立の障害となると考えた朝鮮人学生による爆弾等的未遂事件が起きている(李王世子暗殺未遂事件)。主犯の徐相漢の供述では、標的は李垠夫妻ではなく、朝鮮総督となっていた斎藤実だったという。 妃である方子女王と、その実家である梨本宮家との関係は良好であった。また、朝鮮王室が保有する動産・不動産による財産は、一般の皇族を上回っており、李王夫妻は嫉妬と羨望を受けた。こうした背景から、垠は努めて模範的な陸軍軍人として振る舞おうとした。 夫妻の間には、結婚の翌年に第1男子の李晋が誕生した。しかし1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問した際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀説がある(本人の項を参照)。翌年には陸軍大学を卒業した。1924年(大正13年)には参謀本部附となった。 1926年(大正15年)の李王坧の薨去に伴い王位を継承、「昌徳宮李王垠」と呼ばれることとされた。またこの後には朝鮮軍司令部附となっている。1927年(昭和2年)5月23日から1928年(昭和3年)4月10日にかけ、李垠夫妻はヨーロッパに外遊し、各国を歴訪した。この時、夫妻は「伯爵」の仮名で旅行を行っていたが、各国元首と取り交わした文書ではプリンスを名乗っている。また陸軍少佐となり、近衛歩兵第3連隊大隊長を兼務、1930年(昭和5年)には教育総監部附となった。1931年(昭和6年)に第2男子の李玖が誕生した。 1938年(昭和13年)には陸軍少将となり、北支那方面軍司令部附として中国に赴任、各地の師団の視察を行った。翌1939年(昭和14年)8月に帰国し、近衛歩兵第2旅団長に転じた。翌1940年(昭和15年)5月には留守第4師団長となって大阪に赴任、またこの年には陸軍中将になっている。1941年(昭和16年)7月には第51師団長として再び中国に渡り、11月には教育総監部附となって帰国。1943年(昭和18年)には第1航空軍司令官となった。1945年(昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。 左から李垠、李王坧、李太王、不明(李太王の妃の一人)、徳恵翁主(1918年、徳寿宮にて) 方子妃と共に(1924年) 神戸港での李垠(1928年) 参謀旅行中の李垠と方子妃(1933年) 王公族軍人3名の靖国神社参拝(1938年)
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