ニュー‐アムステルダム【New Amsterdam】
ニューアムステルダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 22:37 UTC 版)
ニーウ・アムステルダム Nieuw Amsterdam |
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![]() 1650年代のニューアムステルダム。現在のニューヨークと違い、自然が豊かな場所だったことがわかる。 |
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位置 | |
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州 | ![]() |
市 | ニーウ・アムステルダム |
ニューアムステルダム(英: New Amsterdam)、ニーウアムステルダム(蘭: Nieuw Amsterdam)は、オランダ植民地時代のニューヨークの名称。
概説

1609年、アジアに通じる北西航路を発見するためオランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが発見した。当時、アメリカ大陸の全容は未知であり、アジアに通じる北西航路があると信じられていたため、東インド会社が探検隊を送ったものである。
ハドソンはハドソン川をさかのぼり、流域一帯をオランダ領ニューネーデルラント(ニーウネーデルラント)と宣言した。ハドソン川の名はハドソンの名にちなむものである。その後、オランダ西インド会社の管轄に移され、ビーバーなどの毛皮が取れるハドソン川流域の植民が行われた。
ニューヨークはオランダ人が25ドルでインディアンから買ったという話は単なる伝説のようだが、1626年頃、ハドソン川下流のマンハッタン島南端に要塞フォート・アムステルダムが建設され、入植地が形成された。この土地はニューアムステルダム(ニーウアムステルダム)と命名された。商館が置かれ交易の拠点となったため人口は急速に増加した。ニューネーデルラント植民地の首都となったニューアムステルダムは1653年に正式に市の資格を与えられた。
ニューアムステルダムはオランダ本国の都市と同様に運河が整備され、周囲に城壁を備えていた。この城壁は後に解体され「ウォール街」となった。市内の大通りは「ブロードウェイ」の起点となった。
北米植民地戦争
1664年、英軍が侵攻してきたためオランダ総督ストイフェサントは無抵抗で降伏した。第二次英蘭戦争(1665年 - 1667年)を終結させたブレダの和約でニューアムステルダムを含むニューネーデルラントはイングランドに割譲され、チャールズ2世はこれを弟のヨーク公(後のジェームズ2世)に与えたので、ニューアムステルダムはニューヨークと改称された。これがニューヨークの起源である。その後、第三次英蘭戦争(1672年 - 1674年)中の1673年にオランダが一時奪回し、ニューオラニエと改称されたが、1674年のウェストミンスター和約でイギリスに再度引き渡され、ニューヨークに再改称された。
関連項目
ニューアムステルダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:05 UTC 版)
「ニューヨーク市の歴史」の記事における「ニューアムステルダム」の解説
ヨーロッパ人による移住は1613年にロウワー・マンハッタンの世界貿易センターのあった場所で始まったオランダの毛皮貿易の発展によって拡大し、1625年にはマンハッタン島の南がニューアムステルダムと呼ばれることとなり、1626年にアムステルダム交易所が建設される。当時ヨーロッパではビーバーの毛皮が流行しておりオランダ東インド会社はハドソンが開拓した地域に新たなソースがあることを確信していた。また同じく1613年にはオランダ人航海士のアドリアン・ブロックはクルーと共に冬をマンハッタンで過ごし、春先に完成させた船でイースト・リバーを北上、ヘルゲート(図5)(英語版)を発見しロングアイランドが大陸ではなく島であることを白人で初めて知った。ブロックは海岸一体をニューネーデルラントと名付け、会社は独占的貿易の権利を得た。これは現在へと続くニューヨーク市の巨大商業の誕生であった。 最も初期の移民は同地域を「発見」したとされているクリスチャン・ヘンドリクセンとジャン・ロドリゲスであった。ロドリゲスは初の黒人住民でもある。 1616年、オランダ人たちは貿易の拠点としてキングストンにも入植を始める。 1623年から24年頃、オランダはこの地域をフォート・アムステルダムに創立したオランダ東インド会社による商業目的として見ており、ボウリング・グリーンにあるアレクサンダー・ハミルトンUSカスタム・ハウスを要塞化。これは上流から攻めてくる可能性のある他のヨーロッパ諸国から会社をも守るためであった。1年も経たないうちにニューアムステルダムの規模は拡大し会社を守るための守備兵や彼らの食料を作るためにヨーロッパから連れて来られたワロン人の農民達により人口が増加した。 オランダ人はヨーロッパ製のビーバーの毛皮加工用の金属製品を同地にもたらすことによって、インディアン同士の主要な貿易商品である貝殻玉(ワムパム)の貿易仲介を行い、生産効率を上げたが、一方その貿易的価値を下げてしまった。またレナペ族はビーバーを守るため食料用の漁業を諦めた。オランダ人は優れた道具で自分達でも貝殻玉を生産し始め、ヨーロッパ人とインディアン双方の貿易の主権を握ろうとしていた(同じことがニューイングランドの入植でも起こっている)。それらの現象が加速した結果、僅か20年足らずでビーバーは現在のニューヨーク市5区から姿を消し、17世紀は疫病、飢饉、他の地域の移住などでレナペの人口も劇的に減っていった。 ビーバーの毛皮貿易は現在のニューヨーク州北方に本拠地を移し北米西海岸の重要な貿易ハブとなった。この頃、ニューネーデルラントは貿易のみが盛んな地域でオランダ文化を持ち込む場所ではなかったため植民地指揮官は民族間同士の衝突に全く注意を払っていなかった。17世紀の貿易による経済効果はオランダ人のみならずスペイン人、ユダヤ人、黒人奴隷を同地域に集めることとなった。 オランダ語から来ているニューヨーク市の地名は未だに多く、オランダ語で「兎の島」という意味の「コニーアイランド」、「ブルックリン」「ハーレム」「ブロンクス」「フラッシング(英語版)」「スタテンアイランド」などがある。 1627年、オランダの植民地指揮官であったピーター・ミニュイット(英語版)は、不動産投資を目的としてインディアンからマンハッタン島とスタテンアイランドを買い取り、一説によれば24ドル相当のガラスのビーズで島は売られたとされている。実際は60ギルダー分の物品との交換だった。インディアンに土地取引の文化は無く、これが公平正当な取引で無かったことは、その後のインディアンと入植者の度重なる戦争で証明されている。 信仰の自由を約束するミニュイットの植民政策はユグノー達の安息地にもなった。マンハッタン島は当時からその天然の良港により大都市に変貌すると考えられていた。さらに同地域南方にはコレクト・ポンドなどの大量の淡水の帯水層があり、地理的に異例であるが湿地帯と高層ビル建設に非常に有利な硬い変成岩マンハッタン・シストが剥き出しになっている岩層が隣り合わせになっている。
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