スペイン・バスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 02:04 UTC 版)
スペイン・バスクや南バスクは、歴史的な領域としてのバスク地方におけるスペイン領土を指す際に使用される用語である。面積は17,625km2、2010年から2011年の調査に基づく人口は1,341,607人。
名称
バスク語ではエゴアルデ(Hegoalde)またはエゴ・エウスカル・エリア(Hego Euskal Herria)と呼ばれる。特にカスティーリャ語ではスペイン・バスクを指す際に様々な呼び方があり、エゴアルデ(Hegoalde)、パイス・バスコ・イ・ナバーラ(País Vasco y Navarra)、パイス・バスコ・ペニンスラール(País Vasco peninsular)など様々な呼び名がある。19世紀初頭までは、(県名ではなく民族的な意味合いでの)「ビスカヤ」、(政治的なアプローチを含めた)「ビスカヤとナバーラ」、「バスク諸県」などと呼ばれた。19世紀から20世紀末までは、「バスク諸県とナバーラ」[1]、「ラウラク・バット」[2]、「バスコニア」(学術用語)、「姉妹県」、「免除県」、「特権県」、[3]「バスク=ナバーラ国」、「バスク国」、「南部」などと呼ばれた。「スペイン・バスク国」という用語もスペイン・バスクと同領域を指すことがあるが、ナバーラ州を除外するかしないかが曖昧である。「南バスク国」はナバーラ州や、バスク州内にあるトレビニョなどの飛び地を含む。英語では南バスク国(Southern Basque Country)などと呼ばれる。
範囲
スペイン・バスクという行政区分は存在しない。スペイン・バスクに含まれるのは以下の3地域であるが、ふたつの飛び地はスペイン・バスクに含まれないこともある。
- バスク州 - アラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県。
- ナバーラ州 – ナバーラ県の1県
- トレビニョ(カスティーリャ・イ・レオン州)とバリェ・デ・ビリャベルデ(カンタブリア州) - バスク州内にある他州の飛び地である。
歴史
スペイン・バスクの4領域はカスティーリャ王国に併合された後も政治面や財政面で強い自治権(フエロ)を有していたが、1830年代に起こった第一次カルリスタ戦争でフエロが縮小され[4]、第三次カルリスタ戦争後の1876年にフエロが撤廃された[4]。バスク地方はスペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられた[4][5]。1893年から1894年にはナバーラ県でガマサダと呼ばれる民衆蜂起が起こって政治的混乱状態にあった[6]。1932年にバスク民族主義党が策定したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)など、バスク人によってスペイン内部におけるバスクの政治的地位の再確立が試みられた。1936年に勃発したスペイン内戦ではビスカヤ県とギプスコア県が共和国側、アラバ県とナバーラ県が反乱軍側に立ち、スペイン・バスクは政治的に分断された[7]。
フランシスコ・フランコ死後の1970年代末にはバスク3県によるバスク州が設置され、ナバーラ県も加えたスペイン・バスク4領域の統合の可能性が再び模索されたが、ナバーラ住民連合はナバーラ県のバスク州への統合に強く反対し、単独でナバーラ州となった。スペイン1978年憲法にはナバーラをバスクに編入する可能性を示した文言があり[8]、ナバーラ住民連合はこの文言の除去を求めた憲法改正を主張している。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっている[9]。
関連項目
脚注
- ^ 1833年にナバーラ県という区分が成立したためである。
- ^ 「4つが1つ」というバスク民族主義者が用いたスローガンに由来する。
- ^ カスティーリャ王国の支配下にありながら伝統的にフエロ(特権/地域特別法)を有していたため。
- ^ a b c 立石博高・中塚次郎『スペインにおける国家と地域 ナショナリズムの相克』国際書院 2002年、p.151
- ^ “LAURAK BAT”. EuskoMedia Fundazioa. 2014年8月1日閲覧。
- ^ Idoia Estornes Zubizarreta. “La Gamazada”. EuskoMedia Fundazioa. 2014年5月24日閲覧。
- ^ 狩野美智子『バスクとスペイン内戦』彩流社、2003年、p.26
- ^ 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 2 近現代・地域からの視座』山川出版社、2008年、pp.387-391
- ^ ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年、p.65
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スペイン・バスク
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「バスク・ナショナリズム」も参照 19世紀のスペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。同じ王国内にありながら法域が異なって関税がかかる状況を改めることは、バスク側にとっては中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。1833年には社会制度や経済構造の維持を唱えるカルロス5世と、自由主義を標榜するイサベル2世との間での王位継承問題を発端とする第一次カルリスタ戦争が勃発し、フエロの維持を求めるスペイン・バスクは旧体制を支持して自由主義勢力と戦ったが、1839年に敗北が決定してスペイン・バスクのフエロは縮小された。1841年にはナバーラ県のフエロが撤廃されて数百の町がスペインに統合され、ナバーラのスペイン化が完了した。その後第二次カルリスタ戦争を挟んで第三次カルリスタ戦争が起こり、1876年7月21日法でバスク地方のフエロは実質的に撤廃された。バスク地方はスペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられた。関税境界はバスクとスペインの境界からスペイン・フランス国境に移動し、スペイン・バスクとフランス領バスクを分断した。このため、パンプローナとバイヨンヌを結ぶ歴史ある街道は分断され、バスク内陸部を潤していた旨みのある密輸商売は消滅したが、バスク沿岸部は比較的恵まれていた。また、工業発展を遂げた19世紀末のバスク地方には他地域から労働者が多数流入し、1900年時点ではビスカヤ県、ギプスコア県、アラバ県のバスク3県における人口の6割が他地域出身者となった。バスク地方では非バスク語化が進行し、バスク人の伝統的価値観や規範が脅かされた。 「バスク民族主義の父」と呼ばれるサビノ・アラナはバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、ビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴えて政治活動を開始した。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人はスペイン人に優越するとした。1895年にはバスク民族主義党(PNV)が設立され、アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容された。アラナは分離主義者ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域 がひとつにまとまった国を提起した。初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱え、第一次世界大戦後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していった。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していった。 1931年には第二共和政が成立し、バスク民族主義党はカトリックを基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出したが、特にスペイン社会労働党(PSOE)による反対運動で廃案となった。この一方で、1933年にはカトリックを基調としないバスク自治憲章案(修正版)がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認され、バスクの歴史上初めてアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3県が法制的にまとめられた。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党はアラバ県やナバーラ県の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れたとされる。1932年には「祖国の日」が制定され、バスク地方では例年復活祭と同時期にバスク国の復活が祝われている。1936年には共和国議会でバスク自治憲章の公布が認められ、ホセ・アントニオ・アギーレをレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が承認された。バスク自治政府はバスク大学の設立に着手し、グアルディア・シビル(治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察を設立し、バスク軍を再編した。1930年代後半のスペイン内戦では、ビスカヤ県とギプスコア県のバスク民族主義党は共和国側に立ってフランシスコ・フランコの反乱軍と戦ったが、アラバ県とナバーラ県は反乱軍に味方した。ナバーラ王国を継ぐナバーラ県はバスク地方の中心的存在だったが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合を拒否してバスク3県から分離された。1937年4月にはバスクの自治の象徴であるゲルニカが、反乱軍と組んだドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受け、1937年6月にはバスク軍最後の拠点であるビルバオが陥落した。バスク自治政府は支配領域をすべて失い、政治的独立の試みが頓挫して亡命政府となった。 スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ(バスク国旗)の掲揚禁止などの政策が取られた。1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成し、亡命政府のバスク民族主義党が主導したビスカヤ県での労働争議は功を奏したが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させた。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えた。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったが、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになった。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していたが、ETAの登場で状況が変わった。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大した。
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