グルー基金とは? わかりやすく解説

グルー基金

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 06:46 UTC 版)

グルー・バンクロフト基金」の記事における「グルー基金」の解説

日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使ジョセフ・クラーク・グルーen:Joseph Clark Grew)の日記一部が、1944年 春、”Ten Years in Japan”としてアメリカで刊行され好評博した邦訳1948年10月毎日新聞社から刊行された(石川欣一訳『滞日十年』(上下2巻))。訳書反響大きく1年半75,000売れた。それを知らされ喜んだグルーは、『滞日十年』の自分印税全て日米親善に役立つ教育慈善施設寄付したいと、旧友樺山愛輔申し出た1949年7月15日のことだった。印税として500万円見込まれていた。 グルー寄付対象として考えていたのは、国際基督教大学グルーアメリカ側募金委員長であった)、バンクロフト奨学基金1928年、故エドガー・A・バンクロフト駐日大使記念して設立され留学基金当時理事長樺山愛輔)、エリザベス・サンダース・ホーム米占軍人日本人女性を親とする混血児のための施設)、その他であった樺山1865年鹿児島旧藩士の家に生まれ15歳の時アメリカ留学した。ウェズレヤン大学学んだが、指導教授死にあって、アマースト大学転じ優秀な成績挙げて卒業した帰国後、父樺山資紀海軍大臣内務大臣文部大臣歴任)の秘書務め政界の裏面に通じようになった中年になって実業界身を投じて幾多重要な役割果たし60歳貴族院議員選ばれた。1924年日米協会1917年大正6年激動する国際情勢の中、日米両国有識者たちによって創立され日本で最も歴史伝統ある日民間交流団体)の副会長1940年会長就任した樺山グルーから寄付申し出受けて奔走した日米協会2人副会長相談しグルー大使時代部下アメリカ外交団の一員として占領下の日本戻っていた者に意見求めた1949年8月22日樺山グルーへの返信で、元金には手をつけず、「財団法人グルー基金」の設立提案した基金設立提案接したグルーは、「考えもしなかったことだが、大変良いアイデアだ」と賛成したとりわけグルー喜ばせたのは、日米協会中心となって基金設立のため、『滞日十年』の印税十倍、5,000万円目指し大々的募金運動乗り出すという便りであったグルーは、基金の設立運営について樺山一任する述べ全幅の信頼寄せたのである樺山は、前田多門元文大臣)、鈴木文史朗参議院議員)等5名を発起人依頼し寄付行為について起草し松本烝治博士国務相)の厳密な校閲経たのち、グルー承認得た1950年2月28日樺山日本工業倶楽部役員会開き理事・監事・評議員委嘱した。役員には、上記の他に、野村吉三郎(元駐米大使)、堀内謙介(元駐米大使)、松方三郎共同通信社専務理事)、高木八尺東京大学教授)、矢代幸雄美術史家)、古垣鉄郎NHK会長)、松本重治国際ジャーナリスト)、石坂泰三東芝社長)、石川一郎経団連会長)など、各界錚々たる指導者名を連ねていた。 6月16日、グルー基金の理事評議員最初会合開き基金の「主たる目標」が発表された。 有望な若い日本学生少年少女—をアメリカ送りアメリカ大学勉強させること。と同時にアメリカ学生日本の大学学ばせるべく招待すること。 アメリカ日本の文化制度研究するため助成金与えること。 日米両国有能な学者高位公職者交流促進するため助成金与えること。 グルー基金の寄贈者[グルー夫妻]が望ましいと認めるような慈善および教育団体に寄付すること。 樺山若き日自分体験徹して十代男女青年に、アメリカ大学4年間を通ず教育受けさせることの必要を痛感」して、そのプラン着々と具体化していった。留学先としての彼の念頭にあったのは、自分母校アマーストやウェズレヤンのような小規模レベルの高い「リベラル・アーツ・カレッジであった。(『樺山愛輔翁』、85頁) 6月17日理事評議員会合で、5,000万円募金活動開始するための企画委員会組織された。その後樺山理事長吉田茂総理大臣(兼外相)に会って相談したところ、「外務大臣として立場お茶の会を催す」申し出なされた1950年11月29日首相官邸お茶の会が開かれ、約300集まった12月2日理事・評議員会で一万田尚登日本銀行総裁募金委員長選ばれ吉田首相ウィリアム・ジョセフ・シーボルドGHQ政治顧問基金の「名誉顧問」に任ぜられた。 1951年3月下旬から募金活動開始された。当時財界金融逼迫の状態にあったが、一万田委員長強力なリーダーシップにより、わずか半年にして目標額を突破し、6,800万円という当時としては巨額浄財寄せられた。 募金活動成功に導くうえで、グルー基金理事長としての樺山尽瘁とりわけ重要であった老体にもかかわらず大磯自宅から東京まで通い会社巡りをするたびに、相当額まとまった寄付集まったが、それは樺山人徳熱意を示すものであった日本全国高等学校卒業生の中から4名の第1回留学生選ばれ1953年8月21日横浜からスラバヤ丸で出発した88歳の樺山翁は大磯静養であったにもかかわらず、「付き添いをつけて、親しく見送って激励された」。樺山翁は1953年10月21日享年88歳で他界した。(「グルー基金十年歩み」) 2006年、グルー基金はバンクロフト基金合併しグルー・バンクロフト基金として生まれ代わった。奨学金受けて米国の大学卒業した者は、国内外問わず様々な分野活躍をしている。

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