インド総督兼副王 (1899年-1905年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:16 UTC 版)
「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の記事における「インド総督兼副王 (1899年-1905年)」の解説
1898年8月にインド総督兼副王に任じられ、同年11月にはアイルランド貴族爵位ケドルストンのカーゾン男爵に叙された。この爵位はアイルランド貴族の爵位(アイルランド貴族最後の授爵例)であったため、父の死によってスカースデール男爵位(グレートブリテン貴族)を継承するまでは、イギリスに帰国した場合、庶民院に復帰することも可能であった。 1899年1月に英領インドに着任し、7年にわたる統治を開始した。 カーゾン卿がインドに到着したのは1897年から1898年まで続いた辺境地域の反乱が鎮圧されて間もない時期であった。このため彼は北西部の独立志向の強い部族に格別の注意を払っており、北西辺境州(英語版)(NWFP)を新たに創設し、懐柔策を混ぜ合わせながらも強権的な統治を行った。 歴代総督の中でもインドの遺跡保護に熱心だった人物で遺跡保護法の制定を主導した。とりわけタージ・マハルやファテープル・シークリーなどの再建事業で成果を上げた。 カーゾン卿の在任中にインドで起きた飢饉は、610万人から900万人の命を奪ったといわれ、彼は今日では、このインドの大部分の地域が巻き込まれて数百万人の死者を出した飢饉に対し、ほとんど対策を打たなかったとして非難を受けている。しかしカーゾンは実際には飢饉と戦うための様々な方策を実施し、飢饉救済のために300万人から500万人の人々に食料を配給し、減税を行い、灌漑事業に莫大な予算を費やした。一方でカーゾンは以下のように発言している、「乱費同然のフィランソロピーによってインドの経済状況を危険にさらせば、いかなる政府も深刻な非難を免れない。そして、見境のない慈善活動によって国民を軟弱にし、国民の独立不羈の精神を腐敗させるいかなる政府もまた、公的な犯罪を犯したことになる」。そして、カーゾンは食糧の配給量を「危険なほど多い」と考えていったん削減し、寺院で被害調査を行った後で救援物資の量を元に戻している。 1901年1月に本国でヴィクトリア女王が崩御してその長男エドワード7世がイギリス国王・インド皇帝に即位した。これを受けて1903年1月にエドワード7世のインド皇帝即位式(デリー・ダルバール(英語版)を挙行した。 ロシア帝国の強大化に対する根深い不信感からイギリスの対ペルシア貿易を奨励し、1903年には自ら英印軍海軍の艦隊を率いてペルシア湾を訪問している。この訪問の際にクウェートと保護条約を結び、クウェートをオスマン帝国から独立したイギリス保護国と成した。またマスカット港の一部をフランスに貸与しようとしていたオマーンへの訪問に際しては砲艦外交を行い、オマーン政府を脅迫してにこの計画を中止させている。これによりフランスとの関係が悪化したが、アラブ諸国に改めて大英帝国の威信を示すことができた。 中央アジアや清への進出を推し進めるロシアがチベットを狙っていると疑っていたカーゾン卿は、1903年12月に先手を打つ形でフランシス・ヤングハズバンド少将にチベット遠征を行わせた。遠征軍はチベット軍を蹴散らしながら進軍し、ラサに入城した。1904年には両者の間で和平が結ばれた。この協定によりチベットは英国の許可なく他国と取引しないこと、英国に賠償金5万ポンドを75年払いで支払い、その間英軍がチュンビ谷全域を占領することが約定された。しかしこの強引なやり口は他の列強諸国の批判を招き、孤立を恐れた本国政府(アーサー・バルフォア首相)の介入で賠償金の額は三分の二に減額され、さらにチュンビ谷占領英軍は1908年までに撤退すると変更された。しかしこの侵攻でロシア軍のラサ進駐は抑止され、1907年には英露協商で英露連携が成ったため、英領インドに対するロシアの脅威は消滅した。 1904年1月に任期を迎え、一時帰国したが、カーゾンは延長して総督に在職することになった。 1905年7月にはイギリスの植民地支配に対する抵抗が激しいベンガル州の抵抗運動分断を狙ってベンガル分割を断行した。しかし反発が強く、かえって抵抗運動が激化したので、この分割はカーゾン退任後の1911年に取り消されている。 カーゾンの地位はインド人の抵抗運動によってはびくともしなかったが、インド総督府内の内部分裂で辞任に追いやられることになった。インド駐留イギリス軍の最高司令官初代キッチナー伯爵ホレイショ・キッチナーは、軍がインド統治委員会国防相の指揮下に置かれることに反対し、軍政も自分の指揮下に置くことを要求した。一方カーゾン卿は軍事行政と指揮権の統一は軍事独裁につながり、文官統制が崩れるとしてこれに反対した。この論争をめぐるインド総督府内の支持は圧倒的にカーゾンの方にあったが、本国ではカーゾン卿より戦争の英雄であるキッチナーの方がはるかに権威があったので国王エドワード7世も首相バルフォアもキッチナーを支持した。事実上本国政府に拒否権を発動された形となり、カーゾン卿は1905年8月をもってインド総督を辞職することになった。しかし皇太子ジョージ5世訪英のために12月までイギリスへの帰国は延期された。
※この「インド総督兼副王 (1899年-1905年)」の解説は、「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の解説の一部です。
「インド総督兼副王 (1899年-1905年)」を含む「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の記事については、「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の概要を参照ください。
- インド総督兼副王のページへのリンク