インド統治への関与
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「リチャード・ストレイチー」の記事における「インド統治への関与」の解説
1858年から1865年まで、ストレイチーはイギリス領インド政府にあって、公共事業関係の書記官ないし書記官代行者として働き、1867年から1871年には、当時、特に設けられた灌漑担当総監の職に就いた。 当時、公共事業関係の行政組織は、1854年にダルハウジー卿が組織を建てて以来、急速に拡大していた関係事業に対処すべく、機構再編を進めている最中であった。この機構再編においては、適切な根拠に基づく説明が行なわれて森林行政の規模が拡大されたが、これはストレイチーの功績であった。インド統治の財政面におけるストレイチーの業績も重要であった。1867年にストレイチーがまとめた計画は、インドの財政権限をかなりの程度まで分権化しようとするものであり、これはその後のインド総督を務めたメイヨー卿やリットン卿の下で、ストレイチーの弟サー・ジョン・ストレイチー (Sir John Strachey) が実行に移した政策の基礎となった。 ストレイチーは、1871年にインドを離れたが、1877年には、東インド鉄道 (the East Indian railway) の買収交渉のため再び現地政府に派遣され、次いでインド大飢饉 (Indian famines) の調査委員会の委員長に選ばれた。1878年、ストレイチーは6ヵ月の間、インド総督府の財務担当代理に任じられ、当時まだ深刻になり始めたばかりのルピーの価値下落に起因する困難に対処する方策の提案を行なった。しかし、ストレイチーの提案は、国務大臣の支持を得られなかった。これ以降、ストレイチーは、インドとイングランドの通貨調整に積極的に関与するようになり、1892年には、ハーシェル卿 (Lord Herschell) を長とする委員会の委員となり、この委員会は1878年にストレイチーが提案した見解に沿った結論を出すに至った。 1875年から1889年まで、ストレイチーはインド担当大臣官房の一員であったが、ストレイチーは東インド鉄道会社会長職に就くことになったためにこの職を辞した。1892年、ストレイチーはブリュッセルで開催された国際通貨会議 (International Monetary Conference) に、イギリス領インド帝国代表として参加した。 ストレイチーは科学方面でも、ヒマラヤ地方の地質学、植物学、自然地理学に関わる重要な業績を残している。ストレイチーは特に気象学研究に力を尽くし、インド気象局の創設にも大きく関わり、1883年には王立協会の気象学委員会座長となった。1888年から1890年まで、ストレイチーは王立地理学会会長を務めた。1897年には、1854年以来フェローであった王立協会から、ロイヤル・メダルを受賞し、同年にはスター・オブ・インディア勲章 (Order of the Star of India) の最上級であるナイト・グランド・コマンダー (Knight Grand Commander) を受章した。ストレイチーは、1908年2月12日に死去した。
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