アントニー・ブレンターノとその他人物(1955年-2011年)
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「不滅の恋人」の記事における「アントニー・ブレンターノとその他人物(1955年-2011年)」の解説
1955年、フランスの学者であるジャンとブリジット・マッサンはアントニー・ブレンターノが当時のプラハとカルロヴィ・ヴァリに居たと指摘し、彼女が「不滅の恋人」の候補となり得るのではないかとの説を唱えた。「(『不滅の恋人』が)アントニー・ブレンターノであったという仮説は魅力的であり、同時に滑稽でもある。」彼らは次のように続ける。仮説が魅力的といえる理由は ベートーヴェンとブレンターノは彼女がウィーンに帰って以来「親しい仲」であったこと 1812年の夏季、ベートーヴェンはブレンターノと同じフランツェンスバードのホテルで過ごしたこと 同年、ブレンターノの娘のマクセに1楽章のピアノ三重奏曲(WoO 39)が捧げられていること 仮説が滑稽である理由は ベートーヴェンとアントニーの夫であるフランツの友情が続いていたこと ベートーヴェンが彼から借金をしたこと 「彼がアントニーに書いた多くの手紙が示すのは、2人の間に純粋で深くありながらも - 互いに抑制し合うことによって - 儀礼的な友情があったに過ぎないということ、そしてベートーヴェンが常にフランツ、アントニーと彼らの子どもを分かちがたい共同体であると認識していたらしいことである。」 その4年後に日本人の作家もアントニーを「発見した」と主張している(Aoki(青木やよひ) 1959年、1968年)。しかし、これは日本国外では注目されず、彼女はドイツ語で刊行した近著で再び自身の発見を発表した(Aoki 2008)。 メイナード・ソロモンは再度、より詳細にアントニー・ブレンターノが「不滅の恋人」であったとする説を提唱した(1972年、1998年)。彼の説は大きく2つの仮説(もしくは必要条件)の上に成り立つ。 この人物が(ベートーヴェンと同じく)問題の時期にプラハとカルロヴィ・ヴァリに居たはずだということ この出来事の直前に、彼女がベートーヴェンをよく知って(少なくとも親しい仲で)いなければならないということ 補1. アントニーは夫、子ども、使用人らとの困難な旅路の末、1812年7月3日にプラハへ到着、記帳を行い、翌朝に出発している。「その夜のどこに彼女がベートーヴェンと逢引きしている時間があったのだろうか。」ソロモンも次のように認めている。「ベートーヴェンとアントニーがプラハで会ったという証拠はない。」またカルロヴィ・ヴァリについては「手紙が生まれたのは(中略)ベートーヴェンに対して自分はカルロヴィ・ヴァリに発つので伝えた意志を実行に移せない、と伝えた女性と会ったからだという可能性がある。」ハリー・ゴルトシュミットは「短期滞在の場合、居住者は(外来者と異なり)報告義務の例外であった」ことを示している。 補2. アントニーに宛てた、もしくは彼女が書いた恋文、及びその他ベートーヴェンとの恋愛関係の可能性を補強する資料はない。唯一、アントニーが義理の兄弟であるクレメンスに送った手紙の中で、ベートーヴェンを「敬愛」していると表明しているに過ぎない。「いつの時点でこの崇敬の念が愛情に変化したのかはいまだ知られていない。私の見込みでは(中略)1811年の秋である。(中略)情事は同年暮れまで続いた。」ソロモンは自らの主張を裏付ける証拠として歌曲『恋人に寄す』(WoO 140)を引用する(1998年 p.229)。この作品の自筆譜にはアントニーが手書きで「1812年3月2日、作者より賜る」と書き込んでいる。この背景には次の記述もある。「1811年11月、ベートーヴェンがバイエルンの宮廷歌手のレジーナ・ラングのアルバムに入れるため、『恋人に寄す』と題した新作の歌曲を作曲していることがわかる。(中略)手帳に書きつけたようないかにも素人の詩。不器用な著者による(中略)素人丸出しの三文作家ヨーゼフ・ルートヴィヒ・シュトールによる。」ソロモン(1972年 p.572)はベートーヴェンがその2年前に「唯一の恋人」であるヨゼフィーネの再婚により彼女との別離に至っていたからといって、アントニーが「不滅の恋人」である可能性を排除できないと主張する。「5年後に瞬間的に恋愛関係が再燃しなかった確証はない。(中略)まだ合理的な疑いの余地が残っている。」ソロモンの仮説に対しては多くの研究者が反論を行っている。ゴルトシュミットは次のように要約する。「アントニー仮説(中略)はその他すべてを除外できるほど完全な説得力を持つものではない。」また「事実関係に内在的矛盾をはらむアントニー仮説で決着をつけるのであれば、提示された他の仮説を論破する必要がある。」 アルトマンによって「テレンバッハが行ったのと同様に示されたのは、アントニーの支持者の主張の根拠の多くに歪曲、推測、意見、さらに単純な誤謬が含まれるということである。」しかしながら、アルトマンが提示する「不滅の恋人」がマリー・フォン・エルデーディであるという可能性はクーパー(1996年)により「あり得ない」と示されている。 ルンド(1988年)はアントニーの息子のカールが、ベートーヴェンと会ったとされる時期からちょうど8か月目に生まれていることから、彼はベートーヴェンの息子であろうと唱えた。これにはソロモンさえも「『扇情主義』である」と考えて与しなかった。 ベアーズ(1993年 p.183 f.)はヨゼフィーネを支持する。「実のところ彼に(中略)内なる者の心理的抑制によってでなく、悲痛な外的要因に阻まれて結婚することが叶わなかった、ある特定の愛する人物に向けられた深い永久の情熱が存在したのだろうか。(中略)マリー・エルデーディ、ドロテア・フォン・エルトマン、テレーゼ・マルファッティ、アントニー・ブレンターノといった愛された者たちへの本当の愛を示すものでさえ、一体どこにあるというのだろうか。これら全員がベートーヴェンの知られざる不滅の恋人として挙げられているが、その評価は記録や既知の書簡に裏付けられたのもではない。誰もがベートーヴェンの親しい友人であった、それは正しい、だが愛となるとどうか。しかしながら1人、わずかに1人だけ現実にベートーヴェンが心の内より熱烈な永遠の愛の宣言を打ち明けた人物がおり、その言葉づかいは不滅の恋人に対する苦悶の手紙と極めて類似している(中略)その人物が彼の『愛する、ただ1人のJ』 - ヨゼフィーネなのである。」 プルカート(2000年)が唱えた、ベートーヴェンが知りもしなかったアルメリー・エステルハージの説には、リータ・シュテープリン(2001年)が反論を行っている。メレディス(2000年 p.47)による総括には次のようにある。「アルメリーとベートーヴェンを繋ぐ証拠がない(中略)繰り返さねばならないのは、アントニーとベートーヴェンの間に情熱的な恋愛関係があったという証拠もなく、ただの親密な友人関係が示されるに過ぎないということである。ヨゼフィーネについては(中略)少なくとも1805年から1807年の間は実際に彼が熱烈に恋焦がれていたということがわかっている。」 クラウス・マルティン・コピッツ(2001年)はこう述べる。「価値ある努力の結果(中略)アントニーが『不滅の恋人』ではあり得ないことが明らかにされた。彼女は幸福な妻であり母であった(中略)彼女を候補に加えるにはカルロヴィ・ヴァリでの三人婚という蓋然性の低い筋書きを盛り込むことになり、心理学的に意味をなさない。」 ヴァルデン(2011年 p.5)は、彼女に宛てられたベートーヴェンの手紙とされる2通の偽書のうちひとつが真筆であるとの仮定に基づき、ベッティーナ・ブレンターノが『不滅の恋人』であるとの説を展開する。「そのベッティーナ宛の手紙が本物であるならば、ベッティーナが『不滅の恋人』であるとの決定的な証明が果たされることになろうが、原本が現存せず、今日ではその信頼性に強い疑問が呈されている。(中略)彼女の信頼性と真実性には、今日暗雲が垂れ込めている。」メレディス(2011年 p.xxii)は自著のはしがきにおいて、主要な候補に関する議論を再度吟味した上で「ヴァルデンの提案は公平に考慮するに値する」と考えた。現在に至るまでの議論の歴史を振り返ったメレディス(2011年)は、フランスのマッサンやドイツのゴルトシュミットらの著作物がこれまで英語に翻訳されておらず、米国を拠点とするベートーヴェン学者がこの研究分野で最も価値ある資料を手にすることができない現状を嘆いている。「不運なことに、『不滅の恋人』に関して最も重要で議論の余地を残す研究には英語翻訳されたことがないものが複数あり、研究が与えうる影響は著しく制約を受けている。」(p.xv)「テレンバッハも(中略)不幸なことに英訳として世に出たことはない。」(p.xvii)
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