アントネスクによる政権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 22:46 UTC 版)
「第二次世界大戦下のルーマニア」の記事における「アントネスクによる政権掌握」の解説
北トランシルヴァニアを失った直後の1940年9月4日、ホリア・シマ率いる鉄衛団は、将軍(後に元帥)であったイオン・アントネスクと手を組んで「国民軍国」を設立し、カロル2世に退位を要求、王位を19歳の息子であったミハイ1世に継がせた。カロルと愛人のマグダ・ルペスクは亡命し、ルーマニアは領土紛争で不利な結果を強いられていたものの、枢軸国側へと歩み寄っていくこととなる。また、鉄衛団はルーマニアで唯一の政党となり、アントネスクは鉄衛団の指導者、シマは副首相にそれぞれ就任した。 鉄衛団の政権下において、もともと厳しいものであった反ユダヤ法はさらに強化された。また、数少ない実業家を対象とした法律も制定され、賄賂による法律の緩和や、敵に対する復讐が横行した。10月8日、ドイツ軍がルーマニアに入り、その数は瞬く間に50万人まで膨れ上がった。 11月23日、ルーマニアは枢軸国へ公式に加わった。11月27日、元高官や役人64人が、ジラヴァ刑務所において裁判なしで処刑された(ジラヴァ虐殺)。その日の遅くには、歴史家で元首相のニコラエ・ヨルガや経済学者で元大臣のVirgil Madgearuが同様に処刑された。 鉄衛団とアントネスクの共同による政権運営は、決してうまくいっていたわけではなかった。1941年1月20日、鉄衛団はブカレストのユダヤ人虐殺と同時にクーデターを試みた。しかし、アントネスクは4日以内にこのクーデターの鎮圧に成功し、鉄衛団は政府から追放されることとなった。シマや多くのレジオナーレ(鉄衛団の構成員)がドイツへと逃亡し、残った者は投獄された。アントネスクは国民軍国を廃止し、代わって「国民社会国家」を宣言した。
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