アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム
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「Osho」の記事における「アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム」の解説
1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した。 警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった。 ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った。 約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された。伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている。 1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた。 1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った。 1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる。 州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された。 逮捕後、最終的に司法取引が行われた。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった。 後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している。 1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった。
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