市の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:51 UTC 版)
投資家たちは1893年までにテキサスシティ開発会社(TCIC)を発足させ、都市の区画整理を計画した。郵便局は1893年に開設され、ミネソタやミシガン州から移った約250人が働いた。TCICは連邦政府からの許可を受け、ボリバー・ローズ(ガルベストン島の東端)から市内へ向け幅8フィート深さ40フィートの運河を浚渫した。1894年にこの運河ははじめて商業的に利用された。最終的には、運河は港から1.5マイルの長さまで延伸させることになる。また、ガルベストンやヒューストンなどを結んでいる市内南方の2つの線路まで、4マイルの線路を敷設した。これらの事業の成功にもかかわらず、TCICは1897年に破綻してしまった。そして会社の資産をもとにしてテキサスシティ会社、テキサスシティ鉄道ターミナル会社2つの会社が新たに組織された。テキサスシティ会社は3000もの土地区画を取得し、水道・ガス・電気の供給を手掛けた。テキサスシティ鉄道ターミナル会社は鉄道の経営を行った。これらの特許は1899年2月4日に与えられた。 1900年に運河を25フィートの深さに浚渫する許可が下りた。しかし同年のハリケーンで浚渫船が陸に上がってしまうなどの壊滅的な被害を受け、計画は一時中断してしまった。それに対して、テキサスシティ港はハリケーンが去った後も使える状態にあった。最初の外洋船であるSSピクア号がメキシコから到着したのは、まだ運河の浚渫が完了していない1904年9月28日であった。浚渫は1905年3月19日に完了し、連邦政府は市内に税関を設けた。その後港は急速に発展し、1902年に12だった波止場の数は1910年には239に増加した。 1908年、テキサスシティ製油会社は港の隣に製油所を建設する特許を与えられた。それから数年間は、テキサス州において石油の副産物のワックスや潤滑油を生産できる唯一の製油所であった。その後、この設備はテキサスの石油企業家シド・リチャードソンによって広められた。さらに3つの精製所も建設され、市はテキサスの石油製品を大西洋沿いの東海岸へと海上輸送する拠点の港となった。 1911年、テキサスシティは市制を施行した。最初の市長選が9月16日に行われ、ウィリアム・P・ターピーが当選した。 1913年、メキシコ革命の襲撃からガルフ・コースト地方を守るため、アメリカ陸軍第2歩兵師団が市に配置された。1915年8月、軍のキャンプがハリケーンによって完全に破壊され、9人の兵士が亡くなった。軍の指導部は即座にキャンプをサンアントニオに移した。 1921年、テキサスシティ鉄道ターミナル会社は港湾設備の運営を引き受けた。社長に任命されたヒュー・B・ムーアは事業拡大のための野心的な計画をはじめた。彼は砂糖精製工場、ガソリン分解プラント、カントリーエレベーターなどを誘致した。多くの貯蔵所やタンクファームも彼の支援により発展した。市は2つのガソリン精製所、砂糖精製工場、2つの綿圧縮工場、さらに乗り合いバスなどの繁栄に支えられ、1925年までにテキサスシティの人口は3500人に達したと推定される。 1930年、大恐慌や競争の激化のため砂糖精製工場が破産した。石油産業が再び発展に転じるまでの数年間、市は不況に悩まされた。1931年、リパブリック石油がガソリン精製工場を開いた。1934年にはパン・アメリカン石油(スタンダード・オイル・オブ・インディアナの子会社)が事業を開始した。テキサスシティがよりメキシコ湾に近いとの理由もあって、ムーアはヒューストン・シップ・チャネルにあったこの製油所の誘致に成功した。1930年代までに、市の人口は5,200人に増加した。 1939年-1940年にかけて、シートレイン・ライズ社は港にターミナルを建設した。この会社は自社の船でテキサスシティからニューヨークまで、毎週鉄道車両を輸送することを専門としていた。1940年までに、テキサスシティはヒューストン、ボーモント、ポートアーサーに次ぎ、テキサス州で4番目の規模の港に成長した。
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