市への発展
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12世紀ごろ、シュトゥットガルトの名前は、1160年頃に Stukarten という表記でヒルザウ文書に初めて記された。Hugo de Stukarten という人物がシュタムハイムとザスバッハの所領をヒルザウ修道院(ドイツ語版、英語版)に遺贈したときのものである。この記述は1950年代半ばに文書管理官カール・オットー・ミュラーによって発見された。 馬の飼育場近くにあった集落は、1200年頃にはバーデン辺境伯の所領となっていた。1219年にバーデン辺境伯ヘルマン5世(ドイツ語版、英語版)によって都市に昇格したというハンスマルティン・デッカー=ハウフの説は、一般的な支持を得られなかった。最初の確実な日付は1229年3月8日で、教皇グレゴリウス9世がベーベンハウゼン修道院(ドイツ語版、英語版)に宛てた文書の中でシュトゥットガルトの名を記している。シュトゥットガルトは、1251年にメヒチルト・フォン・バーデンの嫁資としてヴュルテンベルク伯に贈られた。遅くともこの頃には、現在の旧宮殿の場所に城塞が建てられていた。この城塞の建設は12世紀後半から13世紀前半に始められた。 1286年、ハプスブルク家の王ルドルフはシュトゥットガルト市を包囲して、その市壁を破壊した。王は1287年にはシュトゥットガルト周辺のほとんど全ての場所を占領、または破壊した。ヴュルテンベルク伯エーバーハルト1世(ドイツ語版、英語版)は1302年頃から、現在の旧宮殿の場所に、水城(水堀で囲まれた城)を建設した。帝国都市エスリンゲン(ドイツ語版、英語版)が参戦して帝国戦争を引き起こした皇帝ハインリヒ7世との紛争で、ヴュルテンベルク伯はシュトゥットガルトを失った。シュトゥットガルトは1312年から1315年までエスリンゲンによって統治された。エーバーハルトはハインリヒの死後の政治状況を利用して、失った地域を取り戻した。ヴュルテンベルクの城も1311年にエスリンゲンによって破壊されていたため、1317年から、エスリンゲンによる継続的な脅威に対抗するのに有利な場所にあるシュトゥットガルトに伯の宮廷を置くため、防御の強化がなされた。1320年頃に教皇の許可を得て、ボイテルスバッハ(現在はヴァインシュタットの一部)から聖堂参事会とヴュルテンベルク家の廟所が移され、それまでのアルテンブルクのマルティンス教会に組み込まれた。こうして都市教会はシュティフツ教会として大幅に拡張された。最後に、1323年にコンスタンツ司教がマルティンス教会をその組織下に入れ、首席司祭の機能を与えた。遅くともこれによって、シュトゥットガルトはその重要性において、カンシュタットやアルテンブルクを凌ぐ存在となった。早くも14世紀末にはシュトゥットガルトの都市防衛施設の南東外側に最初のフォアシュタット(大都市を防御するための砦の役割を担った衛星都市)が建設された。このフォアシュタットは、エスリンガーフォアシュタットあるいは、レオンハルツ礼拝堂にちなんでレオンハルツフォアシュタットと呼ばれた。15世紀末にウルリヒ5世(ドイツ語版、英語版)によって北西側に計画的に設計されたオーベーレ・フォアシュタットが建設された。その中心には現在のホスピタール教会を持つドミニコ会修道院が設けられた。1442年のニュルティンゲン条約(ドイツ語版、英語版)によるヴュルテンベルク分割の結果、シュトゥットガルトは1442年から1482年までその一方の首都となった。1457年、シュトゥットガルト側のヴュルテンベルク貴族による代表者会議が(記録の上では)初めて開催された。これに対して、同年、レオンベルク(ドイツ語版、英語版)でウーラハ側の代表者会議が行われた。市城壁内の面積は11-12 ha、1545年頃の人口は約4000人であった。
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