市への昇格まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 04:15 UTC 版)
1910年4月1日にニーダーヘーマーとオーバーヘーマーは「ヘーマー」として統合された。新しい町作りの計画は、1908年末から開始されていた。オーバーヘーマーには近隣町村よりも多くの工場があり、これに伴う多額の税収をインフラ整備に投資することができた。統合によりニーダーヘーマーも地元工業の恩恵を受けた。これと時期を同じくして、ズントヴィヒ、ヴェスティヒ、ラントハウゼンもヘーマーへの合併を検討し始めた。第一次世界大戦開戦によりその実行は遅れた。 第一次世界大戦勃発後、ドイツ全土がそうであったように、ヘーマーの広い範囲で高揚感が興り、早くも開戦1週目に約150人のヘーマー住民が軍役に志願した。興奮はその後数ヶ月で、特に戦死者の報に接したことで、鎮静化した。1915年末までに、招集された2,877人のヘーマー住民のうち約200人が死亡した。地元の工業系企業は軍備品の生産に転換し、戦前に比べ高い利益を得た。一方、一般住民たちは供給不足と疫病に苦しんでいた。ヘーマーでは1917年から1918年にかけての冬に100人以上がインフルエンザで死亡した。 戦後ヘーマーとそのアムトに属す町村では労農レーテが発足したが、それは革命行動を起こすのではなく、コントロールされた団体として形成された。政党もゆっくりと再結成された。ヘーマーの工業の重要な顧客がルール地方にあったため、ルール占領の間、ヘーマーは難民の流入先となり、工場労働者は労働時間短縮に苦しんだ。数多くのストライキが1920年頃の労働活動を特徴付けた。インフレーションの翌年には、アムト貯蓄銀行の他、ズントヴィヒの旅館の主人も(広告目的で)ノートゲルトを発行したが、すぐに禁止された。 1929年8月1日、ラントハウゼン、ズントヴィヒ、ヴェスティヒ、およびカレからイーザーローンに編入されなかった部分が、プロイセンの地域再編に伴ってヘーマーに合併した。これらの町は、第一次世界大戦開戦前にはすでに経済的に、あるいは一部では都市建設上も一体化がなされていた。カレの残りの部分はイーザーローンの地区となった。イーザーローンはヴェスティヒの併合にも関心を表明していた。同じ年にブロックハウゼンがダイリングホーフェンと合併した。これは主に、人口588人の田舎町であったブロックハウゼンでは独立した行政運営が立ちゆかなくなったためであった。 工場主らは1927年頃から経済危機の兆候を感じ始めていた。いくつかの企業が生産を縮小または完全に中止した。1929年には金属加工業の多くの熟練工が解雇された。危機のピークは1931年から1932年で、多くの工業系企業が閉鎖せざるを得なくなった。1931年ヘーマーの工業系企業は2,800人の従業員を雇用していたが、その3年前の雇用者数は4,200人であった。同時に失業者数は、アムト・ヘーマーで2,100人にまで増加し、中でもヘーマーが最も多かった。 ラントハウゼン、ズントヴィヒ、ヴェスティヒの併合後、多くの建設プロジェクトが実施された。ベッケ、ブレーデンブルーフ、ヴェスティヒのカトリック教会やヴェスティの福音主義集会場とともに何百戸もの住宅が建設された。さらに、病院の拡張工事も行われた。建設工事は都市の発展を促進したが、一方では家計に負担を掛けた。1930年の国会議員選挙で NSDAP が KPD を 1 % 上回り、最大の政治勢力となった。アムト・ヘーマーの NSDAP はエーフィングゼンを牙城としていた。エーフィングゼンでは1924年の選挙ですでに最大政党となっていた。権力掌握後、かつて KPD の牙城であったズントヴィヒとヴェストヴィヒでは抵抗運動が最大化した。 1935年4月19日に発令され9月6日に改訂された新しいドイツ市町村法に基づきヘーマーは市への昇格を申請した。1936年1月30日にこの町に都市圏が与えられ、1936年4月25日に県知事ルートヴィヒ・ルンテから文書が交付された。アムト・ヘーマーとヘーマー市は紋章を獲得した。
※この「市への昇格まで」の解説は、「ヘーマー」の解説の一部です。
「市への昇格まで」を含む「ヘーマー」の記事については、「ヘーマー」の概要を参照ください。
- 市への昇格までのページへのリンク