スネリング砦およびミネアポリス市とセントポール市の設立
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「ミネソタ州の歴史」の記事における「スネリング砦およびミネアポリス市とセントポール市の設立」の解説
スネリング砦は州内でも最初の主要軍隊駐屯地となった。ミネソタ川とミシシッピ川の合流点にある砦の土地は1805年にゼブロン・パイクによって取得された。この地域での毛皮交易に関する関心が増え、砦の建設は1819年に始まった。完工は1825年であり、ジョサイア・スネリング大佐とその士官・兵士がこの地域にその足跡を残した。砦の使命の一つはオジブワ族とダコタ族の紛争を調停することだった。ローレンス・タリアフェロが合衆国インディアン担当局の代理人となった。タリアフェロは20年間をこの地で過ごし、1839年に辞任した。 1850年代、スネリング砦は有名な「ドレッド・スコット対サンフォード事件」で重要な役割を果たした。奴隷のドレッド・スコットとその妻は、その主人ジョン・エマーソンによって砦に連れてこられた。彼らは準州内の砦や他の場所に住んだが、そこは奴隷制が禁止されていた。エマーソンの死後、スコットは、自分達が自由な準州に住んだのだからもはや奴隷ではないと主張した。最終的にアメリカ合衆国最高裁判所はスコットの主張を却ける判決を行った。ブルーミントンから少しの距離にあるドレッド・スコット・フィールドは、アメリカ史の中で最も重要な判例の一つにおけるスネリング砦の意義を記念して名付けられている。 1851年までに先住民族とアメリカ合衆国との間に多くの条約が結ばれ、ミネソタの大半は開拓者のために開放され、砦はもはや辺境の基地ではなくなった。スネリング砦は南北戦争の間に兵士の訓練所として使われ、後にダコタ方面軍の本部となった。その一部はスネリング砦国立墓地となり、16万人以上が埋葬されている。第二次世界大戦の間、この砦はまた30万人近い徴集兵の訓練所となった。大戦後、ミネソタ州無料高速道路5号線や55号線の建設のために取り壊される怖れがあったが、市民が歴史ある砦の保存に立ち上がった。スネリング砦は現在、ミネソタ歴史協会によって運営される歴史建造物である。 スネリング砦はミネアポリス市の設立に大きな貢献を果たした。砦の兵士達は自給自足をしようという試みの中で、道路を作り農作物を植え、セントアンソニーの滝には製粉所や製材所を造った。後にフランクリン・スティールが基地の従軍商人(雑貨屋の運営者)としてスネリング砦にやってきて、製材などの事業で利益を上げた。オジブワ族が1837年に土地譲渡の条約にサインすると、スティールはセントアンソニーの滝近くのミシシッピ川東岸の土地を所有権主張した。1848年、滝の側に製材所を造り、セントアンソニーの地域社会が滝の東岸に現れた。スティールの雇い人ジョン・H・スティーブンスが滝の西側の土地は将来工場を建てるための適地であると指摘した。西岸はまだ軍の保留地であったため、スティーブンスはスネリング砦の指揮官と取引を行った。スティーブンスは滝の上流160エーカー (64 ha)の土地と引き替えに無料の渡し船を運航した。スティーブンスは土地の所有権を受け取り、1850年にミネアポリス市では第1号となる家を建てた。1854年、スティーブンスは西岸ミネアポリス市の土地を区画整理した。1872年、ミネアポリス市はセントアンソニーも吸収した。 セントポール市はその存在をスネリング砦に負っていた。現在ではカナダのマニトバ州となった不運なセルカーク植民地から、違法入国者の集団が砦の近くにキャンプを張った。タリアフェロを含む砦にいた多くの人々は新しい来訪者を快く思わなかった。砦から新しい制限が課され、不法入国者達はミシシッピ川を南に下らされた。彼らはファウンテン・ケイブと呼ばれる地点に落ち着いた。この場所は砦の士官達にとって十分遠い場所とは言えず、再度不法入国者達を移動させることになった。この集団の中で人気のある酒類密造者ピエール・"ピッグズアイ"・パランが川を下り、酒場を建てた所がその地域では最初のヨーロッパ人居住地となり、後にセントポール市になった。不法入国者達はパランに因んでその場所を「ピッグズアイ」と名付けた。この地名は後にランバーツ・ランディングに変えられ、さらにセントポールとなった。しかし、その地域の初期の名前はインディアンの居住地「イミニヤスカ」すなわち「白い岩」から来ており、近くにある石灰石の崖を指していた。 ミネアポリス市とセントポール市は集合的に双子市(ツインシティーズ)と呼ばれている。両市はその初期の時代は競争意識があり、セントポール市が州都となり、ミネアポリス市は工業で著名となった。ツインシティーズという言葉は、ある新聞の論説でミネアポリス市がセントポール市を飲み込むことを示唆した後の1872年頃に創られた。住民達は両市がそれぞれの独自性を必要としていると決定して、「デュアルシティーズ」という言葉を創り、その後に「ツインシティーズ」に変わった。今日、ミネアポリス市はミネソタ州最大の都市であり、2000年国勢調査での人口は382,618人である。セントポール市は第二の都市であり、人口は287,151人である。ミネアポリス市とセントポール市は2000年の人口で2,968,806人となる大都市圏の中心である。州全体の人口は4,919,479人である。
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