ドレッド・スコット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 02:26 UTC 版)
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「ドレッド・スコット」の解説
ドレッド・スコットが、奴隷制の禁じられている領土に住んでいたことを理由にその解放を求めて訴訟を起こしたときは62歳であった。その領土とはルイジアナ買収で得た土地の北部であり、ミズーリ妥協の条項で奴隷制は排除されていた。最高裁はスコットの自由を否定する判決を下し、この判決が合衆国を南北戦争に導くことになった。この判決は、スコットが連邦裁判所に訴訟を起こす権利のある市民ではないとし、連邦議会がミズーリ妥協を成立させるには憲法で権限を与えられていないとした。 1857年の「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の判決は、6対3の評決で、自由州に連れて行かれた奴隷は自由にならないとした。連邦議会は領土から奴隷制を禁じることができないし、黒人は市民になり得ないとした。この判決はエイブラハム・リンカーンを含め多くの共和党員に不公平と見なされ、奴隷勢力が最高裁を支配している証拠とも見なされた。裁判長ロジャー・トーニーによって書かれた判決文は奴隷とその子孫から市民権を取り上げた。この判決は奴隷制度廃止運動家を激怒させ、奴隷所有者を勇気づけた。
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