リコンストラクション
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リコンストラクション(英: Reconstruction,「再建」の意味)とは、南北戦争でアメリカ連合国(南部連合)と奴隷制のシステムが崩壊した後の問題を解決しようとする、1863年(または1865年)から1877年までの過程を意味するアメリカ合衆国史の用語である。リコンストラクションの間、連邦政府は南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組んだが、解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人) の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗した。
穏健派の南部再建
1865年春の南北戦争終結後、北部を地盤とする共和党のリーダーたちは、奴隷制および奴隷所有者の権利は永久に壊されたと理解し、アメリカ連合国の国旗やシンボルなど連合国のナショナリズムを表すあらゆる形式のものは抑圧された。共和党穏健派は、これらは連合国の軍が降伏したのと同じくらいすぐに容易に達成できるであろうと考え、そして南部州は脱退を撤廃し、アメリカ合衆国憲法修正第13条を承認した。これら全ては1865年9月までに起こったことである。
エイブラハム・リンカーン大統領は共和党穏健派のリーダーで、リコンストラクションの速度を上げて可能な限り早く国を再建することを望んでいた。1863年後半、リンカーンは正式に、いくつかの州で実施されたが共和党急進派は反対した「10パーセント計画」でリコンストラクションを開始した。リンカーンは、南部に対して厳しく接するべきだという急進派のプランである1864年のウェイド=デイヴィス法案に対しては拒否権を発動した。
共和党穏健派と急進派の対立
リンカーンの対立派閥だった共和党急進派は、奴隷制を廃止し連邦政府に従うという南部諸州の決意に対して強く疑いの念を持っており、もっと強制的な連邦政府の行動を要求した。事実、連合国のリーダーたちは穏健的なリンカーンの政策下で次々復権していた。共和党急進派のリーダーは連邦議会議長のタデウス・スティーブンスと上院議員チャールズ・サムナーだった。リンカーンの暗殺の後、新たに就任したアンドリュー・ジョンソン大統領は急進派寄りから穏健派寄りへと変わった。当初、彼は合衆国有色人種部隊の退役軍人へ投票権を与えることにとても積極的だった。しかし1866年、どの政党にも属さないジョンソンは、共和党穏健派と袂を分ち、平等主義と修正第14条に反対していた南部を地盤とする民主党とより強く手を結んだ。急進派はジョンソンの方針を攻撃し、特に自由黒人への公民権法案に対する彼の拒否権発動を攻め立てた。
1866年アメリカ合衆国議会選挙により、決定的に力のバランスは変わった。急進派は連邦議会の主導権を握り、ジョンソン大統領の拒否権を覆し大統領を弾劾するのさえ十分な議席を得た。ジョンソン大統領は一票差で弾劾を逃れたが、リコンストラクションの政策を押し進める力は既に残っていなかった。
戒厳令と憲法修正
1865年の修正第13条、1868年の修正第14条、そして1870年の修正第15条は、戒厳令下で批准されたので、合憲性が問題になる。13条につき、1861年8月30日、ジョン・C・フレモントがリンカーンに諮ることなく、ミズーリ州を戒厳令下に置くと宣言した[1]。他の州でも同様の事態が起き、そのままの状態が続いたとみられる。14条と15条については、1867年から翌年にかけて4回も制定された再建法により、南部諸州を占領する軍司令官の権限が拡大した。
合憲性は、1868年に最高裁長官のサーモン・チェイスが判断しているが、非常に限定的、事情判決的であった[2]。
南部に対する軍事占領
共和党急進派は軍事再建法を通過させ、合衆国軍を用いて南部諸州を軍事的に占領するにいたった。北部の占領下の南部では黒人に投票権が与えられ、およそ1万から1万5千人の元連合国の役人や高官の白人が公職追放され、投票権を取りあげられた。共和党急進派の政策は、自由黒人(解放奴隷) やスキャラワグ(Scalawag, 南部の再編入を支持した南部白人) 、カーペットバッガー(Carpetbagger, 南北戦争後に南部にやってきた北部人) らが連携し主導権を持つ州で持続し、鉄道や公立学校の建設を通じた南部の産業・社会の再建と近代化を進展した。
しかし彼らは1870年以後、保守的な民主党の派閥で自らをリディーマー(Redeemer, 共和党急進派に対する反動として北部に対抗した保守的な南部人) と呼ぶ反対勢力によって不正行為のかどで告訴された。この時期、南部白人が結成したクー・クラックス・クランが暗躍し、北部人や黒人に対する暴力が後押しされていたが、連邦政府や軍の介入によって圧倒されていた。
南部再建終了と南部監視の放棄
1877年までに、リディーマーたちは南部諸州で共和党から主導権を取り戻した。ラザフォード・ヘイズ大統領は合衆国軍を南部から撤退させ、3つの州で残っていた共和党政権の崩壊を引き起こした。南部諸州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が始まり、差別政策が修正第13条・14条・15条に違反するとの連邦裁判所への訴訟においても「隔離すれども平等」である限りは合憲であるとの司法判断が示された。
この状況は、20世紀後半の公民権運動時代まで続くことになる。
出典
- ^ Carwardine, pp. 177–178
- ^ "Congress was right in not limiting, by its reconstruction acts, the right of suffrage to whites; but wrong in the exclusion from suffrage of certain classes of citizens and all unable to take its prescribed retrospective oath, and wrong also in the establishment of despotic military governments for the States and in authorizing military commissions for the trial of civilians in time of peace. There should have been as little military government as possible; no military commissions; no classes excluded from suffrage; and no oath except one of faithful obedience and support to the Constitution and laws, and of sincere attachment to the constitutional Government of the United States."
- J. W. Schuckers, The Life and Public Services of Salmon Portland Chase, (1874). p. 585; letter of May 30, 1993, to August Belmont
レコンストラクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/24 00:25 UTC 版)
「ノースカロライナ州の歴史」の記事における「レコンストラクション」の解説
詳細は「レコンストラクション」を参照 レコンストラクションの間、アフリカ系アメリカ人指導者達は自由人階級からも北部からの移民達の間からも現れた。これらの者の多くは奴隷制から逃亡し、州内に帰ってくる前にそこそこの教育を受けていた。しかし概して、州内のアフリカ系アメリカ人の大半と白人の約3分の1は文盲が一つの問題であった。 北部から多くの白人がノースカロライナ州に移住してきて働き投資した。州内でカーペットバッガーに対する反感は強かったが、憲法制定会議の代議員133人のうち、北部のカーペットバッガーは18人、アフリカ系アメリカ人は15人に過ぎなかった。ノースカロライナ州は、新しい州憲法を批准した後で、1868年に合衆国への再加盟を認められた。新憲法には公的教育を確立し、奴隷制を禁止し、普通選挙を採用する条項があった。また、児童養護施設、公的な慈善活動および州刑務所に関する条項もあった。議会はアメリカ合衆国憲法修正第14条も批准した。 1870年民主党が州内の勢力を回復した。ホールデン知事は社会的権力を使い、クー・クラックス・クランの増長する暴力と戦うことを声高に叫んだ。保守派の者達は知事がユニオン・リーグ(南北戦争中の北部部支援組織)の長であること、人種間の社会的平等を信じていること、および汚職をしていることを攻撃した。しかし、議会が知事を弾劾することを決定すると、州内の暴動(クー・クラックス・クランのの行動)を鎮圧させるために軍隊を使い報酬を払った事だけが問われた。民主党は1871年にホールデンを辞職させた。 1871年のクー・クラックス・クラン法が有効になった後で、アメリカ合衆国司法長官エイモス・T・アカーマンはノースカロライナ州のクー・クラックス・クラン隊員を活発に告発した。1870年代後半、ピードモント地区で白人が黒人の投票を押さえつけようとする暴動の数が増した。
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レコンストラクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 09:23 UTC 版)
「ミシシッピ州の歴史」の記事における「レコンストラクション」の解説
南軍が敗北した後で、アンドリュー・ジョンソン大統領は、脱退を撤廃し、アフリカ系アメリカ人解放奴隷の公民権を規定し制限する新しい「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes)を起草する臨時政府を指名した。解放奴隷は選挙権を認められなかった。しかし、黒人法は一度も有効にならなかった。解放奴隷に関する法律問題は解放奴隷局の同情的な代表者の支配下に入った。その大半は北部の軍隊で元士官だった。多くは南部州に留まり、政治と実業の指導者になった(侮蔑的にカーペットバッガーと呼ばれた)。 ミシシッピ州の黒人法は次のように要約される。 「黒人はその労働について毎年文書で契約しなければならない。もし彼らがその任務から逃亡した場合、その年の賃金は没収される。求められるときはいつでも、その居所を記し、労働を許可する免許証(町にあっては市長から、その他では警察受持区域の委員会委員から発行)を提示しなければならない。労働から逃亡した者は逮捕され雇用主の所に連れ戻される。一人当たり5ドルとマイル当たりの費用がその黒人を捕まえた者に支払われる。解放奴隷を説得してその雇用者から逃亡させること、あるいは逃亡を助けることは軽犯罪とされ、科料または投獄により罰せられる。未成年者は、男の場合21歳まで、女の場合18歳まで年季奉公に出される。父親が子供を管理するための体罰はその主人による見習いに苦痛を与える可能性がある。放浪者は重い罰金が科され、もし彼らが罰金を払えない場合は、その科料が満額になるまで仕事を課されるものとする。黒人は免許が無い限りナイフや火器を携行してはならない。黒人にアルコール性飲料を売ることは犯罪であり、科料50ドルと30日間の禁固を科される。黒人が科料および法的訴訟費用を払えない時、保安官によって行われる競売により最低入札者に雇用されるものとする。...」 黒人法は北部の世論を激怒させ、いかなる州においても実行には至らなかった。連邦議会は1865年9月に対応して、新しく選出された代議員を受け入れないこととした。1867年、ミシシッピ州はレコンストラクションの一部としてアメリカ陸軍の軍政下におかれ、元アメリカ連合国協力者と解放奴隷に関する法的措置が有効になる時を期限とされた。 軍政府長官アデルバート・エイムズは文民政府を退陣させ、黒人を有権者として登録し、元連合国指導者については1000回に及ぶ期間、投票権も役職に就く権利も禁止した。 レコンストラクションの間、1868年に最初の憲法制定会議が開かれて新憲法を制定し、その主要条項は1世代以上となる22年間続いた。憲法制定会議はアフリカ系アメリカ人の代表者を含む初めての政治的組織となり、その数は代議員100人中17人だった。32の郡では黒人人口が過半数だったが、その代表には白人と黒人を選んだ。憲法制定会議は普通選挙を採用した。選挙権や被選挙権について保有財産資格を撤廃し、このことは貧乏な白人にも恩恵となった。州では初めての公営学校制度を創った。財産の保有と相続については人種差別を禁じた。また、旅行者の公民権を制限することを禁じた。 裕福な農園主ジェイムズ・ラスク・アルコーンが1865年にアメリカ合衆国上院議員に選ばれたが、アメリカ連合国に忠実であった他の南部人と同様、議席を占めることを許されなかった。アルコーンは、議会の共和党が要求するままに、解放奴隷の選挙権を支持し、アメリカ合衆国憲法修正第14条の成立を是認した。 アルコーンは州内共和党の3分の1を占め、カーペットバッガーや解放奴隷と連衡したスキャラワグの指導者となった。1869年、アルコーンは州知事に選ばれ1870年と1871年を務めた。改革を推進する者として、元ホイッグ党員と志を同じくする者を、現在は民主党員であっても多く登用した。 アルコーンは強く教育を支持し、分離された公立学校や、今ではアルコーン州立大学と呼ばれる解放奴隷のための新しい大学を創った。その同調者のハイラム・レベルズをそこの学長にする操作を行った。急進派共和党はアルコーンの後援会政策について怒り、アルコーンと敵対した。アルコーンの政策は、「総合的な政治、社会および経済の改革というよりも、南部の古い文明の「近代化」だ」とぼやく者もいた。 アルコーンは合衆国上院議員になるために知事を辞任し、その同調者でアフリカ系アメリカ人としては初めての上院議員だったハイラム・レベルズを後釜に据えた。上院議員になってからは南部白人が政治的に制限されていた状態の撤廃に動き、連邦議会で急進派共和党が提案する社会的平等の強制には反対した。綿花に課税する連邦法を泥棒と非難し、ミシシッピ州での人種を隔離した学校を擁護した。アルコーンは元奴隷所有者であったが、奴隷制を「国という体のガン」と表現し、自分や他の多くの南部人がそれを無くしたことについて感じる満足を表明した。 1870年までに、元軍政府長官のアデルバート・エイムズがミシシッピ州から上院議員に選出された。エイムズとアルコーンはミシシッピ州における共和党の支配を争った。その政争は共和党を分裂させた。1873年、二人は知事選を争うことで決着を求めた。 エイムズは急進派共和党員とアフリカ系アメリカ人の大半に支持され、アルコーンは保守派白人とスキャラワグの大半の票を集めた。結果はエイムズが69,870票対50,490票で勝利した。 1870年代半ばから終盤にかけて、白人達はレッドシャーツやホワイトリーグといった民兵組織を使い、共和党員を役職から追い出し、黒人を脅して投票を止めさせた。白人民主党員が1876年に議会の支配を取り戻し、1880年代にはアフリカ系アメリカ人の投票権を制限する法律を成立させた。有権者登録を支配することを目指した法律が通り、投票していたアフリカ系アメリカ人の数を減らし始めた。
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レコンストラクション
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「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「レコンストラクション」の解説
詳細は「レコンストラクション」を参照 レコンストラクションは南北戦争の後の時代を指し、敗れたアメリカ連合国に所属していた南部諸州が再度アメリカ合衆国の中に統合された。解放奴隷に公民権を確立しようという試みが、南部白人の間に連邦政府に向けた長びく敵意を生じさせた。 エイブラハム・リンカーン大統領は暗殺される前に中庸的なレコンストラクション計画を認めていた。しかし、戦争期間の莫大な人的犠牲とそれによる社会的変動によって、アメリカ合衆国議会は解放奴隷の保護を含めまず必須条件を課すこと無くしては反逆を起こした州の再加盟に抵抗することになった。リンカーンのその後長続きした遺産には、反逆州における奴隷を解放する1863年の奴隷解放宣言と、元奴隷を教育し、健康管理と雇用を促す1865年3月設立の解放奴隷局があった。アメリカ合衆国憲法修正第13条が1865年12月に批准され、アメリカ合衆国全てで年季を定めた隷属が違法とされた。リンカーンの後継者であるアンドリュー・ジョンソンが議会で多数派である共和党の意志に対して頑迷に抵抗したことは、「議会のレコンストラクション」あるいは「急進派レコンストラクション」と呼ばれるものに繋がった。1866年から1868年、議会は一連のレコンストラクション法を成立させて南部州が再加盟する条件と手続を定め、1866年の公民権法ではあらゆる人々に白人と同じ市民権を与えた。 レコンストラクションの下で、解放奴隷、スキャラワグおよびカーペットバッガーと共和党が連衡して南部州政府を支配し、アフリカ系アメリカ人に市民権を与えるアメリカ合衆国憲法修正第14条を批准した。これらの政府は鉄道や公立学校を建設するために重い借金を抱え、税率を上げたので次第に激しい抵抗に合うようになり、その結果スキャラワグの大半が民主党に移った。ユリシーズ・グラント大統領はサウスカロライナ州、ミシシッピ州およびルイジアナ州でアフリカ系アメリカ人に対する公民権保護を強制した。1870年にアメリカ合衆国憲法修正第15条が批准されてアフリカ系アメリカ人に選挙権を与えた。1875年公民権法が成立して、人種や以前の隷属関係に関係なく、人々が公的施設を利用する権利を保障した。 レコンストラクションは州によって異なる期間続いた。最後は1876年アメリカ合衆国大統領選挙で共和党のラザフォード・ヘイズが接戦の末に対抗馬民主党のサミュエル・ティルデンを破った時だった。選挙人投票結果について異論が続出し、議会は選挙管理委員会を設けてその収拾を図った。委員会の裁定は論争のあった票を全てヘイズに与えることになったが、この決着の影にいわゆる「1877年妥協」があり、南部白人は当時共和党が支配しておりレコンストラクションの終わっていない南部3州での軍事支配をヘイズが終わらせる提案をしたことを知って委員会裁定を黙認した。レコンストラクションそのものは、北部白人が南北戦争の終結と南部白人から国家に対する脅威が無くなったことを認めたことで終結した。 レコンストラクションの終わりは、まだ南部での人口が多かったアフリカ系アメリカ人にとって公民権と市民としての自由というものが信じられた短い期間の終わりでもあった。しかし、人種差別はレコンストラクションの行われた南部のみならず、国中至る所で見出された。白人至上主義者がジム・クロウ法を通じて差別された社会を創りだし、南部の白人特権階級(リディーマー、ブルボン民主党の南部会派)が「ソリッド・サウス」と呼ばれる圧倒的な民主党支配下で確固たる政治と経済の支配力を確保した。田園地帯では地方の法律執行力が弱く、激怒した暴徒が黒人の犯罪容疑者をリンチすることを許した。
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レコンストラクション
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「テキサス州の歴史」の記事における「レコンストラクション」の解説
南部同盟が崩壊したというニュースが1865年6月19日にガルベストンに届いたとき、解放された奴隷たちは歓喜し、ジューンティーンス(w:Juneteenth)の祝賀を作った。テキサス州は戦争によって少ししか苦痛を受けなかったが、貿易と財政は混乱した。怒った帰還兵たちは州の財産を強奪し、テキサスは暴力と混乱の期間に直面した。非道な行為が北テキサスで行われ、インディアン居留地に本拠地がある無法者たちがこれを遂行し、誰彼かまわず略奪し殺した。アンドリュー・ジョンソン大統領は1865年6月17日、北部連盟の総督、A・J・ハミルトンを暫定的に知事に任命した。ハミルトンは、戦前の傑出した政治家だった。彼は、元南軍の人々に、将来北軍を支持することを約束したら恩赦を行うと公式に約束した。1870年3月30日に、テキサスはすべての必要条件を満たしたというわけではないが、合衆国議会はテキサスを北軍連盟へ再承認した。
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レコンストラクション
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「レコンストラクション」の解説
詳細は「レコンストラクション」を参照 リンカーンとその同僚達は戦争中にも占領した南部州をいかに連邦に再加盟させるか、またアメリカ連合国指導者たちと解放された奴隷の運命をどう決めるかという問題があることを予測していたので、レコンストラクションは戦争中に始まっていたと言うことができる。リーが降伏した直後、ある将軍がリンカーンに敗北したアメリカ連合国国民をどう扱うかを尋ねると、リンカーンは「彼らを安心させろ」と答えた。その感覚を保つために、リンカーンはレコンストラクション政策については穏健さを貫き、ほかの問題ならリンカーンの政治的同盟者だった急進派共和党員のタデウス・スティーブンス下院議員、チャールズ・サムナー上院議員およびベンジャミン・ウェイド上院議員の反対を受けた。リンカーンは国を再統一して南部州を疎遠にしないやり方を見つけることにしていたので、戦争中も保持された寛大な条件で迅速な選挙を急がせた。1863年12月8日に出した恩赦声明ではアメリカ連合国の公職に就かず、北軍捕虜を虐待せず、忠誠の誓約書に署名した者には恩赦を与えるとしていた。 南部州が制圧されると、その指導者について、またその管理体制が再編されるために重要な判断をしなければならなかった。特に重要なのはテネシー州とアーカンソー州であり、リンカーンはそれぞれアンドリュー・ジョンソンとフレデリック・スティールを軍政府長官に任命した。ルイジアナ州では、ナサニエル・バンクス将軍に、有権者の10%が同意すれば、州を連邦に再加盟させる計画を促進させるよう命令した。民主党の政敵達はこれら任命を非難の対象にし、リンカーン自身と共和党の政治的願望を確保するために軍隊を使っていると非難した。一方で、急進派共和党員はリンカーンの政策を生ぬるいと批判し、1864年には独自のウェイド・デイビス法案を成立させた。リンカーンがこの法案に拒否権を使うと、急進派はルイジアナ州、アーカンソー州およびテネシー州から選出された代議員に議席を与えることを拒否して報復した。 リンカーンの行った人事は中道派と急進派を共につなぎ止めておくよう配慮されていた。故人となった最高裁判所長官ロジャー・トーニーの空席を埋めるために、奴隷解放を支持し紙幣政策を続けると考えられた急進派のサーモン・チェイスを選択した。 全州には適用されなかった奴隷解放宣言の発布後、リンカーンは憲法の修正によって全国で奴隷制を違法とさせるよう連邦議会に対する圧力を強めた。リンカーンはそのような修正が「全事項に結びつけられる」と宣言した。1863年12月までに、奴隷制を絶対的に違法とする憲法修正提案が議会の審議に移された。修正の最初の試みは1864年6月15日に下院の3分の2以上を獲得できずに通過しなかった。提案した修正条項を通すことは1864年選挙で共和党すなわち統一党の綱領の一部になった。下院での長い議論の後、1865年1月13日に2回目の提案が議会を通り、批准を求めて各州議会に送られた。この批准が成立し、アメリカ合衆国憲法修正第13条は1865年12月6日に憲法に追加された。 戦争が終わりに近づくと、リンカーンの南部レコンストラクション政策は流動的になった。連邦政府は数多い解放奴隷に対する責任が限られていると考えていた。元奴隷の物質的需要に対応するために考案された暫定連邦機関を設置するチャールズ・サムナー上院議員の解放奴隷局法案に署名した。この法は土地を解放奴隷が3年間賃借すれば購入権限を与えるとして、その土地を割り当てていた。リンカーンはルイジアナ州に適用した計画はレコンストラクション中のすべての州には当てはまらないと述べた。その暗殺直前には南部のレコンストラクションについて新しい計画があると述べていた。その閣僚との議論の中で、南部州に短期間軍政を布き、南部の連邦主義者の統制下に連邦に再加盟させるという計画を明かしていた。
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レコンストラクション
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「フランシス・ピアポント」の記事における「レコンストラクション」の解説
ピアポントはアメリカ連合国の軍部と政府に仕えた政治家達に対し寛容の政策を採った。バージニア州政府は元南軍の者達にその失われた特権を回復させる法を成立させ始めたので、元北軍の共和党員の大半には不満だった。戦後、南部は次第にレコンストラクション政策に抵抗するようになり、アメリカ合衆国議会は1867年の軍事レコンストラクション法を成立させた。この法によって、バージニア州は1868年に「第一軍事統制地区」となり、ピアポントはその暫定知事の職をヘンリー・H・ウェルズと交代した。ウェルズは軍政府指揮官ジョン・マカリスター・スコフィールドが新しい憲法が執行されるまでとして指名した。南北戦争の歴史家リチャード・ローに拠れば、ピアポントの解任とウェルズの就任は、元バンデアビルトの職員でユリシーズ・グラントの友人だったハイラム・ボンドが画策したとしている。ピアポントは1867年から1868年のバージニア憲法改定会議で重要人物の一人となり、それが1869年の「アンダーウッド憲法」に繋がった。この後、ピアポントはバージニア政界を離れ、ウェストバージニア州で法律実務に戻った。 ピアポントは1870年にウェストバージニア州下院で1期を務めたが、民主党が州を支配した時に議席を失った。ピアポントの最後の公職はジェームズ・ガーフィールド大統領のときの内国歳入収税人だった。引退後はウェストバージニア歴史協会の設立に貢献し、1899年3月24日にピッツバーグで死んだ。その3年後にフェアモントのウッドローン墓地に移葬され、妻のジュリアや4人の子供のうちの3人の横に眠っている。
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レコンストラクション
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「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「レコンストラクション」の解説
レコンストラクションとは各州が完全な状態に戻るまでの過程である。4つの段階があり、州によって異なった。テネシー州や境界州は影響されなかった。先ずアンドリュー・ジャクソン大統領に指名された政府が到着し、1865年から1866年まで続いた。解放奴隷局が活動し、避難民を救援し、解放奴隷のための雇用契約を設定し、解放奴隷のための裁判所や学校を造った。第2の段階は連邦軍による支配の時期であり、解放奴隷を全て含むが1万人のアメリカ連合国要人を除外する選挙を実行した。第3の段階は「急進レコンストラクション」あるいは「黒人レコンストラクション」の時期であり、解放奴隷、スキャラワグ(南部の白人)、およびカーペットバッガー(北部から来た者)が連衡した共和党政府によって収められた。クー・クラックス・クランなど関連した集団による暴力的抵抗は、1868年から1870年にかけてユリシーズ・グラント大統領によって連邦裁判所や連邦軍兵士を活発に使い抑圧された。レコンストラクション政府は鉄道助成金や学校建設に膨大な予算を遣ったが、税額は4倍になり、保守派の間で納税者の反乱が起こった。第4の段階は1876年までの期間であり、リディーマーと呼ばれる保守派の連衡が、サウスカロライナ州、フロリダ州およびルイジアナ州を除く全ての州の政治支配を取り戻した。論争になった1876年の大統領選挙はこれら激しい闘争があった3州が争点になった。その結果は1877年妥協となり、共和党のラザフォード・ヘイズが大統領となり、南部全州から連邦軍を引き上げさせたので、最後の共和党州政府も即座に崩壊することになった。
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レコンストラクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:22 UTC 版)
「ホレス・グリーリー」の記事における「レコンストラクション」の解説
レコンストラクション時代、グリーリーは一貫性の無い道を歩み、ほとんど急進派共和党を支持し、1865年から1866年にはアンドリュー・ジョンソン大統領に反対した。1867年のジェファーソン・デイヴィスの保釈について自ら保証人に立ったことは昔からの読者の多くを驚かせ、その半数は購読を中止した。
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レコンストラクション
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「ケンタッキー州の歴史」の記事における「レコンストラクション」の解説
ケンタッキー州は奴隷州だったので、レコンストラクション中は軍隊が駐屯した。解放奴隷局の支配下にあり、選任された役人の資産については連邦政府の調査があった。1865年の選挙では、アメリカ合衆国憲法修正第13条の批准が大きな政治課題だった。ケンタッキー州は結局、アメリカ合衆国憲法修正第13条、第14条および第15条の批准を拒否した。民主党がこの選挙を制し、その最初の行動の一つは1862年の国外追放法を撤廃し、アメリカ連合国市民の市民権を回復することだった。 戦後、クー・クラックス・クランはケンタッキー州で極めて活動的だった。1867年から1881年までに、フランクフォート・ウィークリー・コモンウェルス紙は、黒人に対する発砲、私刑および笞打ちを115件報じた。 レコンストラクションは、黒人に対する平等な市民権と婦人参政権を求める運動でもあった。著名な奴隷制度廃止論者カシアス・マーセラス・クレイの娘、ローラ・クレイは婦人参政権運動の行動的指導者であった。 ケンタッキーの麻産業は、マニラ麻が世界でも主要な綱の材料になると、衰退した。このことで、既にケンタッキー州では最大の換金作物であったタバコの生産量が拡大した。
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レコンストラクション
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「ライサンダー・スプーナー」の記事における「レコンストラクション」の解説
スプーナーは、南北戦争とその後のレコンストラクション時代を辛辣に批判した。黒人奴隷制度の廃止を認めたが、北部がそれを行動目的にできなかったことを批判した。奴隷制度を廃止するために戦う代わりに、「連邦を保存する」ために戦い、スプーナーの言い方では、連邦の背後にある事業の利益を誇示するために戦ったとしていた。特に奴隷制度を終わらせたことで奴隷制度廃止運動の英雄であるかのように主張していたサムナーのような共和党の一部について、このような戦争は偽善的であり、誠意が無いと考えた。またこの戦争は自由に対して大きな犠牲を強いており、アメリカ独立宣言にうたわれた権利はもはや真とはならないことが明らかになった、人々は自分達を政府に結びつけている「政治的縛りを解消」できず、政府は人々がそうするならば被統治者の同意について「破壊的になる」と論じた。南部はそうしようとしたが、元の政府に対する従属を強制するための銃剣に出遭うことになったと考えた。 戦中の北部政府の行動は、スプーナーの無政府主義的見解を過激にさせるようになった。スプーナーは『反逆無し』と題する一連の政治小冊子を発行した。その中でも有名なものは『反逆無し、第6号:権限無しの憲法』だった。この長文の随想の中で、憲法はそれに署名した個人以外の者達には論理的に適用されない政府の契約であり、それ故に無効であると論じた。さらに現憲法下に存在する政府は、自然法に対立し、被統治者の同意に対立する強制的な政策を求めるので、自由に対する悪用を適切に止められず、あるいは専制政治が始まるのを防止できないことが示されてきたと論じた。法的な契約によって設立された連邦政府は、国内の誰もその契約に署名せず、その同意を与えていないので、法的に全ての人々を束ねることができない、その同意は常に仮定に基づいており、裁判所で有効な契約だと証明できる最も基本的な責任となりえていないと、述べることで自説を補強した。 スプーナーはその『反逆無し』の小冊子を広く配付した。それには元南軍兵士のために意図された反逆罪に対する弁護が含まれていた(このために小冊子の題名が決められ、この戦争で南部によって「反逆」は行われなかったと論じた)。これら抜粋が「デボウズ・レビュー」など当時良く知られた南部の定期刊行物で掲載された。 ジョージ・ウッドコックはスプーナーの随想を、ジョサイア・ウォーレンの「丁寧な解説」、かつプルードン概念のアメリカでの初期の展開と表現し、その著作をスティーブン・パール・アンドリューズのものに結びつけた。
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レコンストラクション(1865年-1877年)
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「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「レコンストラクション(1865年-1877年)」の解説
詳細は「レコンストラクション」を参照 戦争による荒廃は広い範囲に及んだ。中でもひどかったのは人の死と負傷だった。農園の大半は無傷だったがその馬、ロバおよび牛の大半は失われていた。交通手段は両軍によって広範に破壊されて麻痺状態だった。ある歴史家は次のように叙述した。 南部人が直面した最大の惨状の一つは、交通体系に与えられた大破壊だった。道は通行不能か存在しないようなものであり、橋は破壊されるか洗い流されていた。重要な河川交通は止まっていた。堤防は破壊され、水路は封鎖され、捕獲や破壊を免れていた数少ない蒸気船は悲惨な状態であり、桟橋は朽ちるか無くなっており、舟運用に訓練された人員は死ぬか離散していた。馬、ロバ、牛、馬車、荷車、および台車はほとんど全て競合する軍隊によって何れかの時点で破壊されていた。鉄道は麻痺し、運行会社の大半は破産していた。鉄道軌道は敵軍の特別の目標にされた。アラバマ州における延長114マイル (182 km) の線は「橋と橋脚が全て破壊され、枕木は朽ち、建物は焼かれ、水タンクは無くなり、溝は埋められ、軌道には雑草や藪が茂っていた。」シャーマンの軍隊は手の届く範囲のあらゆる鉄道設備を破壊した。ジョージア州中部だけでも281マイル (450 km) のうち136マイル (218 km) に及んだ。熱して曲げられたレールを木に巻き付けるようなことまでやった。アラバマ州の鉄道800マイル (1,280 km) のほとんど全てが使い物にならなかった。ミシシッピ州のある線は損傷はあっても使用に耐えたが、蒸気機関車1両、二等客車2両、一等客車1両、手荷物車1両、食堂車1両、家畜運搬車2両および無蓋車2両があるだけだった。コロンビアやアトランタのような情報の中心は廃墟になっていた。店舗や工場は破壊されるか破損していた。戦闘が行われなかった地域ですら、前線で必要な装備を略奪され、戦時の損傷は適切な修理や取替も行われずにほとんど崩壊状態だった。鉄道の修復は一世代を要さず、大半は北部の資本で行われた。
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