南北戦争とその後
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「コロンバス (ミシシッピ州)」の記事における「南北戦争とその後」の解説
南北戦争のとき、コロンバスは病院町だった。しかし、コロンバスは武器製造所でもあり、火薬、拳銃、さらに幾らかの大砲も作っていた。このために北軍はコロンバス侵攻を命じたが、南軍のネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍のために止められた。このことがジョン・マクブライドの著書『ウェストポイントの戦い: エリス橋での南軍の勝利』に書かれている。シャイローの戦いで負傷した兵士の多くがここに連れて来られ、数千の遺体が町のフレンドシップ墓地に埋葬された。病院の1つは1863年に建設された受胎告知カトリック教会であり、現在も使われている。1866年4月25日、一群の女性が墓地の北軍兵も南軍兵も墓を花で飾ると決定し、それがメモリアルデイとなるものの初期の例となった。詩人のフランシス・マイルス・フィンチがその日にたまたま町に居り、その詩『青と灰色』でその行動を記念することとなった。 南軍のネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍が、北軍をコロンバスに近づけないようにした結果として、コロンバスにある戦前の家屋は燃やされたり破壊されたりすることを免れた。その家屋の集積は州内でもナチェズに次いで2番目に広大なものとなっている。このこともジョン・マクブライドの著書『ウェストポイントの戦い: エリス橋での南軍の勝利』に書かれている。これら戦前の家屋は毎年開催される巡礼のときに巡ることができ、地元住民が全国から来る観光客のためにそれら家屋を開放している。 戦中、コロンバスの弁護士ジェイコブ・H・シャープが南軍の准将を務めた。戦後、シャープはコロンバスの地方紙「インディペンデント」を所有し、地区を代表してミシシッピ州下院議員を4年間務めた。
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南北戦争とその後
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「フレデリックスバーグ (バージニア州)」の記事における「南北戦争とその後」の解説
南北戦争の間、フレデリックスバーグはその位置が北軍と南軍のそれぞれ首都であるワシントンD.C.とリッチモンドの中間にあったために、戦略的に重要となった。1862年12月11日から15日にかけてフレデリックスバーグの戦いが行われ、北軍による砲撃と略奪のために市は大きな損失を受けた。1863年5月にもチャンセラーズヴィル方面作戦(1863年4月27日-5月6日)に関連して、市とその周辺で2度目の戦いがあった(チャンセラーズヴィルの戦い)。1864年5月、市の近くで荒野の戦いとスポットシルバニア・コートハウスの戦いが起こった。 南北戦争後、フレデリックスバーグは域内交易の中心として以前の立場を取り戻し、市域も緩りと拡がった。1908年、州の女性のための教員養成と工業の学校としてメアリー・ワシントン大学がここに設立された。この大学は1938年にメアリー・ワシントン・カレッジという名前になり、女性の一般教養カレッジとしてバージニア大学と長年交流した。1970年にはバージニア大学から切り離され、男性の入学を認めるようになった。近年、その名称をメアリー・ワシントン大学に変えた。卒業生と専門的研究のための別のキャンパスが郊外のスタッフォード郡にある。 今日、フレデリックスバーグはバージニア州北中部で急速に成長している地域の商業中継点となっている。ここ何十年間で郊外が成長したが、地域の過去を覚えている人は多い。40ブロックある国定歴史地区には市の中心地域が含まれ、18世紀から19世紀の建物350棟以上がある。著名な家屋として、ケンモア、ワシントンの姉妹ベティの家、およびワシントンの母が晩年を過ごしたメアリー・ワシントン・ハウスがある。夏季にはこの歴史地区を目指す多くの観光客がフレデリックスバーグを訪れる。 その他の歴史ある建物や博物館として、18世紀のライジングサン酒場、ヒュー・マーサーの薬屋およびジェームズ・モンローの法律事務所博物館がある。重要な公共建築物としては、ジェームズ・レンウィック・ジュニアが設計した1852年の市庁舎がある。レンウィックの作品としては、ワシントンにあるスミソニアン博物館の城館やニューヨーク市のセントパトリック大聖堂、および1816年の市役所と立会所がある。この最後の建物は現在、地元の歴史博物館と文化センターを収めている。 近郷の観光地として、38マイル (56 km) 東のウェストモアランド郡にあるジョージ・ワシントン生誕地国立記念碑、フレデリックスバーグから川向こうにあるワシントンが少年時代を過ごしたスタッフォード郡のフェリー農場歴史史跡がある。ファルマスの歴史地区はラッパハノック川対岸北にあり、画家ガリ・メルシャーズの家である古民家ベルモントがここにある。 この地域で行われた南北戦争の戦闘はフレデリックスバーグおよびスポットシルバニア郡戦場跡記念国立軍事公園で記念されている。1927年のアメリカ合衆国議会法で創設されたこの国立軍事公園では、フレデリックスバーグ、チャンセラーズヴィル、荒野およびスポットシルバニア・コートハウスの各戦場の部分を保存している。フレデリックスバーグ国立墓地はこの公園の一部であり、フレデリックスバーグ戦場跡のメアリー高地にあり、この地域の戦場から集めた北軍兵の遺骸15,000体以上が埋葬されている。 1958年、レイ・アンド・ヒズ・レイ・メンがリリースしたシングルレコードである楽器曲『ランブル』(ガラガラ鳴る音)をフレデリックスバーグでリンク・レイが初めて即興演奏した時に、現代ギターのパワーコードが初めて開発された。地域の音楽シーンは広い範囲のジャンルを含んでいる。 2008年、フレデリックスバーグはバージニア州の他地域と同様、アメリカ合衆国大統領選挙における候補者にとって重要地点となった。2008年9月27日、メアリー・ワシントン大学のキャンパスで、アメリカ合衆国上院議員かつ民主党大統領候補バラク・オバマと副大統領候補のジョー・バイデンが選挙集会を開き、およそ26,000人の支持者を集めた。共和党の副大統領候補で州知事のサラ・ペイリンは10月27日の集会で8,000人を集めた。
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