南北戦争の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:55 UTC 版)
1867年4月、ポープはレコンストラクションの第3軍事地区軍政官に指名され、その本部をジョージア州アトランタに置き、黒人が陪審員を務めることを許可する命令を発し、アトランタ市長のジェイムズ・ウィリアムズがもう一年その職に留まるよう命令し、選挙を延期し、またレコンストラクションに賛成しない新聞に市が広告を載せることを禁止した。アンドリュー・ジャクソン大統領は1867年12月28日にポープを解任し、ジョージ・ミードに置き換えた。 ポープは西部に戻り、アパッチ族を保留地に強制移住さためにアパッチ戦争に従軍して名声を得た。インディアン保留地の仕組は、腐敗したインディアン管理局(BIA)によるよりも、軍隊によって管理する方が良いと進言して、ワシントンで政敵を作った。インディアンに対してより「人道的な」扱いを要求して論議の元を作ったポープの「人道的な扱い」とは、「インディアン問題」についての次の発言によく示されている。 私の目標は、スー族を一人残らず皆殺しにすることです。 ポープは、いずれすべてのインディアンと決着をつける計画を持っていた。その計画とは、出来るだけたくさんのインディアンを「撃って」、「吊るして」、「その領土からすべてを追い出す」ことだった。 1879年にジョン・マカリスター・スコフィールド少将による査問委員会が、フィッツ・ジョン・ポーター少将は不公正に有罪とされており、第二次ブルランの戦いでの敗北責任の大半はポープ自身にあると結論付けたことで、ポープの体面はひどく傷つけられた。この報告では、ポープが戦闘の経過について向こう見ずで危険なくらい情報を容れない存在であったと性格づけ、ポーターの意図的な命令不服従で全軍崩壊の危機を救ったとした。 ジョン・ポープは1882年に少将に昇進し、1886年に退役した。オハイオ州サンダスキーに近いオハイオ兵士の家で死んだ。ミズーリ州セントルイスのベルフォンテーヌ墓地に埋葬されている。
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