インディアン戦争
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インディアン戦争(インディアンせんそう、英: Indian Wars)は、1622年から1890年の間の、北アメリカで白人入植者(インディアンが呼ぶところのwhite man)とインディアンの間で起きた戦争の総称。初期のころからインディアンと白人入植者の小競り合いが続いていたが、白人入植者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら、大規模化していった北米植民地戦争である。この戦争は、白人、主にキリスト教徒によって行われた大量虐殺、民族浄化、強制移住であった。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は現在でも土地を返還する意向を示していない[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。
注釈
- ^ 北海道の約1.5倍の面積相当。
出典
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インディアン戦争
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「ドッグ・ソルジャー」の記事における「インディアン戦争」の解説
1849年、大平原部族を白人の持ち込んだコレラが襲い、シャイアン族では特にマシコタ・バンドとオクトグナ・バンドをほぼ壊滅させ、シャイアン族の南部支族約半分を死滅させた。「犬の戦士団」は壊滅状態となったマシコタ・バンドの戦士団に編入され、次第にその勢力を取り戻した。彼らは白人侵略者との戦いで勇猛な働きを見せ、再び部族から敬意を受けるようになった。 1864年の「サンドクリークの虐殺」で、チビントン大佐の率いる第三連隊はブラック・ケトル酋長の属するウタパイ・バンドを虐殺し、ヘヴァイタニウ・バンドやオイヴィマナ・バンド、ヒシオメタニオ・バンドといった支族もインディアン戦争で数を減らした。 北西大平原の支族に根差した「犬の戦士団」は、同盟部族のスー族で、ダコタ族やシチャング族としばしば婚姻関係を結んだ。トール・ブルやホワイト・ホースといった著名な戦士を含む、「犬の戦士団」の多くがスー族との混血だった。1867年6月の「ウォレス砦の攻撃」では、ローマン・ノーズとともに戦っている。
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インディアン戦争
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「フィリップ・シェリダン」の記事における「インディアン戦争」の解説
南北戦争以後腐っていたジョージ・アームストロング・カスターを第7騎兵隊(7th Cavalry Regiment)の隊長に任命し、西部方面でのインディアン討伐に当たらせた。 南西部における「アパッチ戦争」では、ジェロニモらのアパッチ族に、徹底殲滅の姿勢をとった。 伝統的な戦術を好み、部下のジョージ・クルックが採用したインディアン斥候を嫌い、このことでアパッチ討伐が遅れていると、公然と彼を非難した。クルックはこのことで解任転属を願い出た。 後任にネルソン・マイルズを派遣したが、この際「捕虜にするか、さもなくば殺せ」と厳命し、ジェロニモたちを追いつめていった。 コマンチ族の一部バンドが降伏した際に酋長のトサウィ(英語版)から「よいインディアンもいる (トサウィ、良いインディアン)」と言われ、「私の知っている良いインディアンは必ず死んでいた。」と返した。やがてそれが同席していたチャールズ・ノルドストローム中尉によって「良いインディアンは死んでいるインディアンだけだ。」と伝えられアメリカ中に知れ渡った。以来、この人種差別的言辞はアングロ・サクソン人によって度々使われるようになる。ただし、この発言はジェームズ・M・キャバノー下院議員が最初のものという説もある(en:James M. Cavanaugh)。
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インディアン戦争
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「グレンビル・ドッジ」の記事における「インディアン戦争」の解説
南北戦争が終わりに近付くと、ドッジのミズーリ方面軍は拡張されて、カンザス州、ネブラスカ州およびユタ準州の方面軍も含むことになった。1865年夏、スー族、シャイアン族およびアラパホ族インディアンがボーズマン・トレイルと山岳地の郵便配送路を襲うようになった。ドッジはこれらの襲撃を鎮めるために懲罰的作戦を命じ、これがパウダー川遠征と呼ばれることになった。この遠征の野戦指揮官はユタ地区軍を指揮するパトリック・エドワード・コナー准将に任された。コナーの部隊はタング川の戦いでアラパホ族に決定的な敗北を負わせたが、この遠征自体は概して決着が付かず、最終的にレッドクラウド戦争に発展した。
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インディアン戦争
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「第7騎兵連隊 (アメリカ軍)」の記事における「インディアン戦争」の解説
常備軍の一部隊たる第7騎兵連隊の編成は1866年7月28日に開始され、1866年9月21日にはカンザス州フォート・ライリー(英語版)にて編成が完了した。これは戦時動員の解除に伴う常備軍拡張政策の一環として行われたものであった。連隊はフォート・ライリーを駐屯地として、1866年から1871年にかけてインディアン戦争に従軍した。 南北戦争後、第7騎兵連隊は12個中隊によって編成され、正規の大隊(battalion)編成は行われなかった。しかし実際には大隊相当の編成は存在し、これは1883年に改めて騎兵大隊(squadron)と改称された。A〜D中隊は第1大隊、E〜H中隊は第2大隊、I〜M中隊(J中隊は欠番)は第3大隊を構成した。1892年までアメリカ陸軍の騎兵は主に.45口径のコルト・シングル・アクション・アーミーやスプリングフィールド・カービンで武装し、マクレランサドルと呼ばれる鞍も広く使用されていた。何種類かの軍刀(サーベル)も配備されていたが、前線で使用される事は少なかったという。 第7騎兵連隊でも当時の他の米陸軍連隊の例に漏れず軍楽隊が編成されていた。軍楽隊はアルフレッド・ギブス(英語版)少佐によって設置され、この際にアイルランド民謡「ギャリーオーウェン」を連隊歌として採用した。以後、「ギャリーオーウェン」は第7騎兵連隊の愛称としても知られてゆく。 1868年、連隊はウォシタ川の戦いとして知られるインディアンの野営地襲撃作戦を遂行する。この戦いで米兵21名が戦死し、野営地のシャイアン族150名が殺害された。 1871年から1873年まで、第7騎兵連隊の各中隊は再建法(英語版)(Reconstruction Act)の元で深南部の保安任務に参加し、また1874年から1876年にも連隊の半分が同様の任務に付いている。1873年、第7騎兵連隊はダコタのフォート・エイブラハム・リンカーン(英語版)に駐屯地を移した。その後、1874年になると連隊は歴史にも残るブラックヒルズへの調査探検(英語版)を行い、ゴールドラッシュを引き起こすと共にブラックヒルズ戦争の勃発を招いた。1876年6月25日、リトルビッグホーンの戦いにおいて連隊長ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7連隊の騎兵211名が玉砕した。この戦いは「第7騎兵隊の最期」として広く知られているが、連隊そのものは以後も存続しており1877年のベアポウの戦い(英語版)などいくつかの軍事作戦に参加している。インディアン戦争末期の1890年12月29日、連隊はウンデット・ニーの虐殺として知られるインディアンの虐殺事件を起こしている。 インディアン戦争を通じて、第7騎兵連隊からは45人の名誉勲章受章者が出た。 カスター中佐 リトルビッグホーンの戦場から回収された第7騎兵連隊の連隊旗。 絵画『カスター最後の戦い』(Custer's Last Stand)。1899年、エドガー・サミュエル・パクスソン(英語版)によって描かれた。
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インディアン戦争
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「ワイオミング州の歴史」の記事における「インディアン戦争」の解説
ワイオミングへの移民や開拓者の流入は先住民との遭遇の機会を増やし、トレイル沿いには軍隊の駐在が増えて行った。ララミー砦(英語版)のような軍事基地は地域の秩序を保つために設立された。1851年、第一次ララミー砦条約(英語版)がアメリカ合衆国と先住民族代表との間で取り交わされ、平和とトレイルに沿った開拓民の安全を確保した。1850年代はその結果静穏だったが、開拓者が先住民族に約束された土地に進入するようになって再び緊張関係が持ち上がり、特に1851年の条約で先住民族に約束されたパウダーリバー・カントリーの猟場を通るボーズマン・トレイルが1864年に開通してからはひどくなった。開拓者と先住民族の軋轢が1865年にはより深刻になっていたので、グレンビル・M・ドッジ少将は暴力沙汰を鎮めるために最初のパウダーリバー遠征を命じた。この遠征はタングリバーの戦いでアラパホ族と戦闘して終わった。翌年、闘争はワイオミングにおける最初のアメリカ合衆国と先住民族の大きな軍事衝突であるレッドクラウド戦争にまで高まった。1868年の第二次ララミー砦条約(英語版)はパウダーリバー・カントリーから白人を締め出すことで戦争を終わらせた。ブラックヒルズの鉱夫達によるこの条約の侵犯によって1876年のブラックヒルズ戦争が起こり、主にワイオミングとモンタナの州境沿いで戦われた。
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インディアン戦争
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「ネルソン・マイルズ」の記事における「インディアン戦争」の解説
1866年7月、マイルズは正規軍の大佐に指名された。1869年3月、第5アメリカ歩兵連隊の指揮官となった。1868年6月30日にメアリー・ホイト・シャーマンと結婚した。メアリーはホイト・シャーマンの娘、ウィリアム・シャーマンとジョン・シャーマンの姪であり、チャールズ・R・シャーマンの孫娘だった。 マイルズはグレートプレーンズのアメリカ・インディアン種族に対する陸軍の作戦のほとんど全てで指導的役割を担った。1874年から1875年、カイオワ族、コマンチ族およびレッド川沿いの南部シャイアン族を破る部隊の野戦指揮官だった。1876年から1877年の間では、ジョージ・アームストロング・カスター中佐がリトルビッグホーンの戦いで敗れた後は、北部平原を平定する作戦に参加し、スー族やその同盟種族を保留地に押し込めた。1877年冬、モンタナ州を横切る強行軍を行い、ジョセフ酋長に率いられたネ・ペルセ族の部隊を止めた。ネ・ペルセの指導者ジョセフ酋長はインディアン準州に監禁され、その窮状を批判する世論が高まる中、マイルズは次第にジョセフと心を通わすようになり、その軍歴の残り期間、オリバー・O・ハワード将軍と争うことになった。戦略的には、イェローストーンに居る間に、通信信号を送るための日光反射信号機実験で専門知識を広げた。これは陸軍信号司令部のアルバート・J・マイアー准将が支給したものだった。 1886年、アリゾナ州におけるジェロニモたちアパッチ族の抵抗戦(アパッチ戦争)に対する軍指揮官としてジョージ・クルック将軍と交代した。クルックはチリカーワ・アパッチ族指導者を捕まえるための行動でアパッチ族斥候に過度に頼りきっていた。マイルズはその代わりに白人部隊に頼り、過酷なシエラマドレ山脈でジェロニモたちを追って3,000マイル (4,800 km) も動き回ったが虚しかった。最終的にアパッチ族のやり方を学んでいたチャールズ・W・ゲイトウッド少尉が、ジェロニモとその追随者達はフロリダ州の居留地に追放監禁されるという条件でその降伏を交渉することに成功した。この追放者の中には陸軍のために働いたチリカーワ族の者まで含まれており、マイルズが彼らと同意したことを破っていた。マイルズはゲイトウッドが交渉に成功した功績を否定し、ゲイトウッドをダコタ準州に転籍させた。この作戦の間、マイルズの特殊信号部隊が日光反射信号機を広範に活用し、野戦における有用性を証明した。特殊信号部隊はW・A・グラスフォード大尉の指揮下にあった。 1890年、北西部一帯を「ゴースト・ダンス」と呼ばれる信仰が席捲。白人に対して反抗的な教義を重く見た連邦政府の命で、マイルズは以前の勤務地に戻ったが、スー族を随わせようというマイルズの行動が、ビッグ・フット酋長の死と約300名の虐殺に繋がった。これは1890年12月29日の「ウンデッド・ニーの虐殺」と呼ばれ、犠牲者のほとんどは女性や子供だった。マイルズは直接「ウンデッド・ニーの虐殺」に関ってはいなかったので、その時の指揮官を批判した。マイルズは全体としてアメリカはインディアンに関する権限があるとの持論を持ち、スー族を米軍の支配下におこうとした。
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インディアン戦争
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「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「インディアン戦争」の解説
詳細は「インディアン戦争」を参照 アメリカ合衆国西部の平原や山岳地に鉱山師、牧場主および農場開拓者などが進出していったことで、そこに先住していたインディアンとの紛争が拡大した。連邦政府はインディアンたちに割り当てられた居留地に留まらせることを主張し、そこに留めておくために力を用いた。1880年代に暴力沙汰は減っていき、事実上1890年で止んだ。1880年までに狩猟経済の基盤だったバッファローの群れは消失していた。白人の社会改革者たちは迅速にインディアンをアメリカ社会の中に同化することを望み、ペンシルベニア州カーライルのカーライル・インディアン工業学校のような訓練計画や学校を設定した。この中から多くの著名な指導者が育った。しかし同化に反対する勢力は抵抗した。 1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラック・ヒルズを通り過ぎた時に最後の重大なスー族戦争が起こった。アメリカ軍はスー族(ラコタ派)の狩猟場に鉱山師が入らないように手配することを怠った。この地域で狩りをしているスー族に対し行動を取るよう命令が出たとき、条約の取り決めに従って軍隊は活発に動いた。幾つかの決着の着かない遭遇の後で、ジョージ・アームストロング・カスター将軍はラコタとその同盟の主要宿営地を発見した。1876年6月25日、リトルビッグホーンの戦いで、本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊が、戦術的な利点があり数的にも上回ったインディアンに全滅させられた。インディアンはクレイジー・ホースに率いられ、シッティング・ブルの勝利の予言によって鼓舞されていた。 その後の1890年、サウスダコタ州ウンデット・ニーの北部ラコタ居留地でゴーストダンスの儀式の際に、アメリカ軍はラコタの武装解除を試みた。このときに銃撃が起こり、兵士たちはおよそ100名のインディアンを殺した(ウンデット・ニーの虐殺)。死亡した約25名の兵士は友軍の銃撃で死んだ可能性がある。これが表だったインディアンとの紛争の最後のものになった。 社会改革者たちは居留地に居るインディアンが個人として土地を所有できるようにするという解決策をとることにした。1887年、ドーズ法によってインディアンの土地を分割し、1家族の一人あたり160エーカー (0.65 km2) の土地を与える提案を行った。このような割り当て土地はその後25年間連邦政府から委託され、その後は所有者が全的な権利(売却や抵当入れも可能)を得て、完全な市民権も獲得した。しかしこのようにして手に入れた土地は開拓者に売りに出された。この政策は、インディアンが部族固有の土地のほぼ半分を売却したことになり、インディアンにとっては損失になった。また部族間の社会的組織の大半も破壊され、生き残った先住民としての伝統的な文化も混乱した。ドーズ法はインディアンをアメリカの本流と一体化させることを目指したものであり、大半は同化してアメリカ社会の中に吸収され、数多いアメリカ人の家庭の中にインディアンの血を残した。同化を拒んだ者たちは居留地で貧困に喘ぎ、連邦政府から食料、薬および教育などの支援を受けた。 1934年のインディアン再組織化法によってアメリカ合衆国の政策が逆転し、居留地の部族とその生活様式を保護するようになった。
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インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:30 UTC 版)
テカムセの生まれた時代、拡大する一方の白人入植者は、ショーニー族の領土であった東部地方にも押し寄せ、合衆国はインディアンの領土を力づくで購入し始めた。白人たちは布や銃など「物品」と引き換えに、インディアンたちの土地を「買い」、「自分たちの所有物にした」つもりだった。 対するインディアンの社会のルールでは、土地は誰のものでもなかった。「大いなる神秘」の下すべてが平等であり、和平の誓いを立てれば恵みをもたらす大地は異部族間でも共有することが出来た。土地を巡る戦いはインディアン間でもあったが、「聖なるパイプ」を回し飲みして和平を誓えばどんな諍いも治めることが出来た。 インディアンの考えからすれば、白人が贈り物を持ってきて、「ここに住まわせてくれ」と言ってきたのであれば、互いに「聖なるパイプ」を回し飲みして「大いなる神秘」にこれを了承してもらい、インディアンも白人も助け合ってその土地で暮らせばよいのである。実際にインディアンたちはそのつもりだった。土地は誰のものでもないし、それはこの世の中すべての者に当てはまる基本条件だった。 ところが、白人たちはしばらくすると、インディアンたちに彼らの土地から出て行けと命令し始めた。すべては「大いなる神秘」のもとに平等であると考えるインディアンたちにとって、「命令される」ということは考えられなかった。人間も動物も自然もすべてが共有文化のもとにあり、誰かの所有物ではないからである。 白人たちは土地を「正当に購入した」つもりなので、インディアンたちが異議を唱え始めると、武力で以てこれを排除し始めた。白人の要求はただ「土地の恒久的占有」だった。「すべてを共有する」という文化に立脚するインディアンたちにとって、これはどうしても理解できず、納得できないものだった。 「土地が白人の物になった」ということを理解できないインディアンたちに対し、入植者たちは「白人のもの」となった土地にいつまでも残っている彼らを殺し始めた。さらに合衆国は入植地拡張のために、陸軍を送って虐殺を援助した。 「聖なるパイプ」に誓った和平を破られたインディアンの戦士たちは、侵略者たちに戦いを挑んだ。オハイオ周辺のインディアン部族は、ショーニー族と連合するなどして戦ったが、合衆国軍の圧倒的な火力の前に次々に破れ去り、弱体化して領土を奪われていった(→インディアン戦争)。
※この「インディアン戦争」の解説は、「テカムセ」の解説の一部です。
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インディアン戦争
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「ブラックフット族」の記事における「インディアン戦争」の解説
他のグレートプレーンズのインディアン部族のように、ブラックフットは白人に対してしばしば敵対関係にあった。敵対関係にあったにもかかわらず、ブラックフットの大部分はグレートプレーンズでのインディアン戦争に加わらず、戦うこともアメリカ陸軍の偵察をすることもなかった。しかしながら、1870年1月23日にピーガン族は移住者への襲撃を鎮圧するための取り組みとしてアメリカ陸軍に誤って攻撃され、ほぼ全滅した(マライアスの虐殺)。友好関係にあった王立カナダ騎馬警察とマライアスの虐殺での蛮行を知った者は、ブラックフットがカナダやアメリカに対して交戦するのを思いとどまらせた。 シャイアン族やアラパホ族と同盟していたラコタがアメリカ陸軍と戦っていたとき、ブラックフットに使者を送り共に戦うように促した。ブラックフットで最も影響力のあった酋長の一人であるクロウフットはラコタの使者を追放した。彼はもしラコタが北のブラックフットの領域に再び来れば、北西騎馬警察と連合してラコタと戦うと脅した。クロウフットの忠誠心はオタワからロンドンのヴィクトリア女王にも知られ、彼とブラックフットの忠誠心を称賛した。にもかかわらず、クロウフットは後にリトルビッグホーンの戦いでジョージ・アームストロング・カスターの隊を倒した後カナダに逃れてきたシッティング・ブルと面会した。クロウフットはラコタ族が間もなく亡命者になると考え、彼らの闘争に同情したが、戦いに反対する姿勢は変えなかった。シッティング・ブルはクロウフットに感心し、息子の一人は彼に因んで名付けられた。 ブラックフットはルイ・リエルが主導したノースウェストの反乱にも関わらないことを選択した。ルイ・リエルらは政府への不満を拡大させ、強力な支持者を得ようとした。ノースウェストの反乱に参加した大半はアシニボイン族や平原クリー族のメティであり、ヨーロッパ人の侵略とバッファローの群れの大量殺戮に対して戦った。平原クリー族はブラックフットが最も嫌っていた敵の一つであったが、しかしクリー族の有力な酋長であるパウンドメーカーをクロウフットが受け入れ、2つの部族は和解した。彼は戦いを拒んだが、クロウフットは反乱に共感し、とりわけクリー族を率いた著名な酋長であるパウンドメーカー、ビッグ・ベアー、ワンダリング・スピリット、ファイン・デイには深く同情した。 ブラックフットが中立状態を保っているという知らせはカナダ総督のランズダウン侯爵にも届き、ヴィクトリア女王に代わってクロウフットへ再度感謝を表明した。ジョン・A・マクドナルド内閣(初代カナダ首相)もクロウフットへ大きな拍手を送った。
※この「インディアン戦争」の解説は、「ブラックフット族」の解説の一部です。
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インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:30 UTC 版)
ワンパノアグ族のメタコメット酋長がニューイングランドのイギリス人入植者と戦った、1675年のフィリップ王戦争で、アベナキ族はワンパノアグ族の味方をした。アベナキ族はメイン州で3年間戦いを続けた。アベナキ族は白人入植者に村や家屋を襲撃され、後退していった。1678年に平和条約が締結され戦争が終結したが、多くの人々が殺され、生き残った者もバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばされた。 1702年から始まったアン女王戦争では、フランスと同盟して戦った。メイン州ウェルズからカスコ(ポートランド)にかけて、数々の小さな村が襲撃され、10年以上の間に約300人が殺害された。戦争が終結すると、襲撃も収まった。捕虜の中にはモホーク族やアベナキ族に引き取られる者もいた。年配の捕虜は身代金を求められることがふつうだった。 ラル神父戦争(1722 - 25年)では、セバスチャン・ラル神父に促され、アメリカ人入植者の侵入を止めるために戦いが起こった。マサチューセッツの民兵がラル神父を捕らえると、アベナキ族はブランズウィック、アロージック、メリーミーティング・ベイの入植地を襲撃した。マサチューセッツの政府は宣戦布告し、1724年のノリッジウォックでの血みどろの戦いでラル神父が戦死した。ソコー川上流、現在のメイン州フライバーグ付近の村では、1925年にペクワウケットの戦いが起こった。その後ボストンとカスコ湾で平和条約に署名されたことで、戦争が終わった。ラル神父の死後、アベナキ族はセントフランシス川に面した集落に移った。
※この「インディアン戦争」の解説は、「アベナキ族」の解説の一部です。
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インディアン戦争
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「最初の大陸横断鉄道」の記事における「インディアン戦争」の解説
ユニオン・パシフィック鉄道の経路は大平原で、平地であったため建設は順調に進んだが、インディアンの領土にさしかかると問題が発生した。この地の平原インディアンたちは、この頃には彼らの土地を没収され、インディアン移住法に基づく強制移住によって保留地(Reservation)に追いやられていた。さらに、鉄道の路線はその保留地を横断する形となって、狩猟民族である彼らは狩り場をさんざんに荒らされることとなった。インディアンたちは「鉄の馬」の建設を白人による新たな侵略ととらえていた。また、平原のインディアンの生活の糧だったバッファローが「設備を壊すから」と手当たり次第に駆除された。数千単位で移動するバッファローの群れが通過するのに、数日かかることはざらだったのである。こうしてスー族をはじめとするインディアン部族はしばしば建設労働者を攻撃し、ユニオン・パシフィック鉄道は治安維持のために狙撃手を配置せねばならなかった。ショーショーニー族など、自らの保留地への鉄道敷設を歓迎した部族もあった。
※この「インディアン戦争」の解説は、「最初の大陸横断鉄道」の解説の一部です。
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インディアン戦争
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「名誉勲章受章者の一覧」の記事における「インディアン戦争」の解説
詳細は「インディアン戦争における名誉勲章受章者の一覧(英語版)」を参照 インディアン戦争(1622年 - 1890年)は、北米への入植を図った植民地政府および連邦政府とアメリカン・インディアンとの間で生じた一連の衝突を指すアメリカ側の呼称である。インディアン戦争においては426人の名誉勲章受章者があり、このうち13人が死後追贈である。 受章者のうち、20人はウンデット・ニーの虐殺に関与したとされる。
※この「インディアン戦争」の解説は、「名誉勲章受章者の一覧」の解説の一部です。
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インディアン戦争
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「ジョージ・クルック」の記事における「インディアン戦争」の解説
南北戦争が終わったとき、クルック将軍は正規軍の少将に名誉昇進したが、恒久的階級として中佐に戻され、第23歩兵連隊と共に太平洋岸北西部で辺境任務に就いた。パイユート・インディアンに対する作戦を実行し、そのことでユリシーズ・グラント大統領に認められた。グラントはクルックをアリゾナ準州の指揮官に据えた。クルックはアパッチ族の斥候を使ってクーチシュ酋長が率いるアパッチ族インディアンを居留地に移動させることに成功した。1872年、アリゾナ準州が平和になり、クルックは正規軍の准将に指名されたが、この昇進は将軍への昇進を待っていた幾人かの大佐達に越えるものであり彼らを怒らせることになった。クルックは1876年から1877年にかけての大スー族戦争でスー族と戦った。ローズバッドの戦いでラコタ族と戦った。 1875年から1882年はネブラスカ州ノースオマハにあるオマハ砦を本部とするプラット方面軍の指揮官となった。この期間の1879年、スタンディングベア隊クルック事件の裁判でポンカ族や先住民の権利のために発言した。この年にクルックの家、現在はクルック将軍の家と呼ばれているものが完成した。 1882年までにクルックはアリゾナでの指揮に戻った。アパッチ族がジェロニモ酋長の指揮の下にアメリカ陸軍に対して再び武器を取っていた。クルックは何度もアパッチ族を降伏させようとしたが、ジェロニモは逃亡した。アパッチ族は尊敬の印としてクルックに「ナンタンルパン」と渾名をつけたが、これは「灰色のキツネ」を意味していた。ネルソン・A・マイルズがクルックに変わってアリゾナの指揮を執り、アパッチ戦争を終わらせた。このときマイルズはジェロニモ、チリカーワ・アパッチ族およびアメリカ陸軍に仕えるチリカーワ族の斥候をフロリダ州に追放させた(クルックは自分達の種族に反抗して誠実にアメリカ軍に仕えた斥候たちが同じように扱われたことを怒りショックを受けて、ワシントンに多くの抗議文を電報で送った)。クルックはインディアン戦争で長い間作戦に関わった後、しっかりと恒久的少将の階級に昇進し、グロバー・クリーブランド大統領は1888年にクルックを「ミズーリ軍事地区軍」指揮官に据えた。 クルックは1886年から1888年までオマハで再びプラット方面軍指揮官を務めた。クルックがそこに居る間、画家のハーバート・A・コリンズがクルックの肖像画を描いた。 クルックはその晩年、以前は敵対者であったインディアンの不公正な待遇について発言した。クルックはシカゴでミズーリ地区軍の指揮官を務めている時に急死した。当初はメリーランド州オークランドに埋葬されたが、1898年11月11日にアーリントン国立墓地第2地区に移された。 オグララ・ダコタ族(スー族)戦争指導者のレッド・クラウドはクルックが死んだときに、「彼は少なくとも我々に嘘をついたことは無かった。彼の言葉は我々に希望を与えた。」と語った。
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インディアン戦争
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「ジョン・ギボン (将軍)」の記事における「インディアン戦争」の解説
ギボンは戦後も軍隊に留まった。正規軍の階級で大佐に戻され1876年のスー族インディアンに対する作戦(ブラックヒルズ戦争)では、モンタナ準州のエリス砦で歩兵隊の指揮を執った。ギボン、ジョージ・クルックおよびアルフレッド・テリー各将軍がスー族とシャイアン族に対する協働作戦を行ったが、クルックはローズバッドの戦いで退却させられ、ギボンは、ジョージ・アームストロング・カスター中佐がリトルビッグホーン川の堤で大変大きな村落を攻撃した時には近くにいなかった。リトルビッグホーンの戦いはカスターと261名の兵士の死に繋がった。6月26日にギボン隊が接近したことでおそらくまだ包囲されていたマーカス・リノ少佐の指揮する数百名の部隊を救った。ギボンは翌日到着し、死者を埋葬し負傷者を救助することを助けた。 翌年オリバー・O・ハワード将軍から、モンタナの西部、ビッグホール川沿いで宿営していたネズ・パース族を遮断するという電報を傍受したときはまだモンタナで指揮を執っていた。ビッグホールの戦いでギボン隊はインディアンに大きな損失を負わせたが、インディアンの狙撃に遭って動けなくなった。ハワード将軍の部隊が戦い2日目の遅くに到着するまでインディアンの攻撃に耐え抜き、その後撃退に成功した。
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インディアン戦争
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「フレデリック・ベンティーン」の記事における「インディアン戦争」の解説
1867年1月、ベンティーンは第7騎兵隊とその野戦指揮官ジョージ・アームストロング・カスター中佐との新しい任務のために出発した。これがベンティーンにとってその後16年間を共にする連隊になった。休暇や派遣任務の期間を除いて1882年まで、ベンティーンは第7騎兵隊のH中隊を指揮した。1867年1月30日、ベンティーンはカスターとその妻エリザベスの宿舎に慣習的な表敬訪問を行った。3月27日、ベンティーンの妻がアトランタで息子フレデリックを出産した。 南北戦争の後、シャイアン族インディアンがカンザス州の辺境で大きな脅威になっていた。1868年7月遅く、ベンティーンはラーニド砦近くにいるインディアン代理人の安全を保つための遠征隊を率いた。8月10日、ローマンノーズが指揮する200名のシャイアン族戦士がカンザスの開拓者、男女、子供合わせて200名を虐殺した。8月13日、ベンティーンは30名の騎兵を率いているときに、ザラー砦に近いエルクホーン・クリークの川岸でシャイアン族の襲撃隊と出合った。ベンティーンは約50名の戦士と見られる部隊に突撃を掛けた。ベンティーンが驚かされたことに、200名以上のシャイアン族が牧場を襲っているところだった。ベンティーンは休み無く夜までシャイアン族を追いかけ、その日一日中小休止をせずに戦った。第7騎兵隊のこの文句無い勝利によって、ベンティーンは大佐に名誉昇進し、カンザス州中部の開拓者の崇拝を受けた。 10月13日、ベンティーンとその部隊は連隊のための武器と弾薬を積んだ幌馬車隊を護衛しに向かった。その部隊が幌馬車隊のところに到着したまさにその時に戦士の1隊の攻撃が始まった。ベンティーンは戦士達を駆逐し、幌馬車隊を捕獲の脅威から救った。後に襲撃隊の来た道を辿って、インディアン準州のウォシタ川沿いにあるシャイアン族集落に第7騎兵隊を導くことになった。 襲撃を続けて受けたことに反応したフィリップ・シェリダン将軍は懲罰的報復の作戦を立てた。その部隊は冬の宿営地に入ることによってインディアンの攻撃に対抗し、物資を破壊し、家畜を殺し、反抗した者を殺すということだった。これにはほとんど地図も無い地域を真冬に騎馬で動き回ることもあり、大胆な指導力が求められた。シェリダンは、それ以前に軍法会議から戻ってきていたカスター中佐にその任務を渡した。シェリダンはそのような任務にはカスターのみを信用しており、1868年11月にカスターはシェリダンからの特別命令を持って連隊に戻った。 11月23日、カスターは第7騎兵隊の11個中隊と共に補給基地を出発し、ウォシタ川に向かった。11月27日、第7騎兵隊は川でシャイアン族集落を囲んだ。カスターは部隊を4つに分けて集落を襲わせた(ウォシタ川の戦い)。 H中隊の大尉であるベンティーンはこの攻撃中エリオット少佐の騎兵大隊を率いた。騎っていた馬がシャイアン族酋長ブラック・ケトルの息子に撃たれた。それはおよそ14歳の少年であり、リボルバー拳銃しか装備していなかった。ベンティーンはもし少年がその武器を落としたならばその命は救われただろうと回想した。ベンティーンはピース・サインを送った。サインの意味の通じないその少年はお返しにリボルバーを向けてベンティーンを撃った。弾は当たらず、少年はもう一発放ち、その弾はベンティーンの上着の袖を貫通した。ベンティーンが友好的な身振りを続けているので、少年は3発目を撃った。この弾がベンティーンの馬に当たり、ベンティーンを雪の中に投げ出させた。インディアンの少年がもう一度拳銃を放とうとしたので、ベンティーンは遂に少年を撃って殺した。 カスターがシェリダンに送った戦闘の報告書には部隊の損失にはほとんど触れておらず、ジョエル・エリオット少佐と16人の騎兵が戦死したことは告げなかった。ベンティーンは友人に宛てた手紙でこのことについてカスターを批判し、その手紙がベンティーンの許可無くセントルイスの民主党系新聞に渡った。それが掲載されたとき、カスターはその著者を「懲らしめる」と脅したが、ベンティーンは自分がそれを書いたことを認めたにも拘らず、カスターがその脅しを実行することは無かった。
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インディアン戦争
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「アーサー・マッカーサー・ジュニア」の記事における「インディアン戦争」の解説
1885年にインディアン戦争のアパッチ作戦に参加し、ジェロニモ以下先住民族を殲滅させ、1897年に中佐に昇進した。
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「インディアン戦争」の例文・使い方・用例・文例
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