奴隷制度廃止運動
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奴隷制度廃止運動(どれいせいどはいしうんどう、英:Abolitionism)は、奴隷制度と世界的な奴隷貿易を終わらせようとする政治活動である。ヨーロッパの啓蒙時代に始まり、19世紀のヨーロッパとアメリカ合衆国で大きな世論となり、最終的にその目的の幾つかは達成できた。ただし、今日でも子供や大人の奴隷および強制労働は広がり続けている。なお、英語では上記のようにAbolitionismという一つの単語だけで奴隷制度を対象とした廃止運動を表す習慣となっているので、注意を要する。また、Abolitionismは一般的には廃止論あるいは廃止主義と日本語訳されるが、本稿では理論的なことに加えて奴隷制度の廃止に至る活動を取り上げたので廃止運動とした。
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奴隷制度廃止運動
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「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「奴隷制度廃止運動」の解説
詳細は「奴隷制度廃止運動」および「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」を参照 南北戦争前のアメリカ合衆国で奴隷制に関する議論には幾つかの側面があった。奴隷制度廃止論者は第二次大覚醒およびヨーロッパ啓蒙主義の中から直接現れ、奴隷制を神あるいは理性に対する冒涜と見た。奴隷制廃止運動は禁酒運動とも同様な根があった。1852年にハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』が発売されると、奴隷制度廃止運動を活性化した。 しかし、奴隷制に関する議論の大半はその道徳性よりも奴隷制の拡張についての合憲性に関するものだった。奴隷制の利点よりも議会の権限に関する議論という形を取った。その結果がいわゆる「自由土地運動」になった。自由土地支持者達は奴隷制が白人に与えるものの故に危険であると考えた。この「特別の制度」は特権階級が南部の土地、資産および資本の大半を支配することを確実にしていた。アメリカ合衆国南部はこの定義によって民主的ではなかった。「奴隷権力陰謀」と戦うために、国内の民主的理想が新しい領土と南部に拡がらねばならなかった。 しかし、南部では奴隷制が多くの方法で正当化されていた。1831年のナット・ターナーの反乱は南部白人を震撼させた。さらに深南部に農産物の王様「キング・コットン」が拡大することが南部社会にその制度を浸透させた。ジョン・カルフーンの論文『奴隷制擁護論』では、奴隷制が単純な必要悪ではなく、肯定的善であると論じた。奴隷制はいわゆるアフリカの野蛮人に対する恩恵である。それは彼等を文明化し、彼等の必要とする終生の安全を保証するものだ。この議論の元で、奴隷制擁護論者はアフリカ系アメリカ人が生物学的に劣っているので、自分で自分の面倒を見られないと考えた。さらには、南部白人は北部とイギリスのことを文化のほとんど無い、精神の欠けた社会と見なした。北部は汚く、危険で、工業化が進み、生活速度が速くまた貪欲であるのに対し、南部は文明化され、安定し、秩序があり、「人間のペース」で動いていると考えた。 1860年国勢調査で、385,000人足らず(すなわち国内白人の1.4%、あるいは南部白人の4.8%)が1人以上の奴隷を所有していた。黒人の95%は南部に住んでおり、そこの人口の3分の1を構成しており、一方北部では人口の1%に過ぎなかった。
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奴隷制度廃止運動
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「ヘンリー・ウォード・ビーチャー」の記事における「奴隷制度廃止運動」の解説
ビーチャーは当時の社会的な問題の多くに関わるようになり、中でも奴隷制度廃止の問題が大きかった。ビーチャーは神学生時代から奴隷制度を憎んだが、その見解はウィリアム・ロイド・ガリソンのような奴隷制度廃止運動家と比べれば概して中庸なものだった。ガリソンは奴隷制度を終わらせることを意味するのならば、アメリカ合衆国を分裂させることも提唱した。ビーチャーにとって個人的な転換点は1848年10月だった。このとき逃亡した2人の若い女性奴隷が再度捕まえられたことを知った。2人の父から彼女達を解放する可能性を提案され、ビーチャーにそのための資金を集めてくれるよう訴えがあった。ビーチャーは2人の自由を贖うために2,000ドルを集めた。1856年6月1日、サラという若い女性の自由を贖うために別の偽装奴隷競売を開催した。 ビーチャーは広く再版された『我々は妥協すべきか』という小品の中で、ホイッグ党のアメリカ合衆国上院議員ヘンリー・クレイが取り持った反奴隷制度派と奴隷制度擁護派の間の妥協である1850年妥協を攻撃した。この妥協はカリフォルニア州での奴隷制度と、ワシントンD.C.での奴隷売買を禁止し、強力な逃亡奴隷法を成立させた。ビーチャーは特に最後の条項に反対し、逃亡した奴隷を食べさせ匿うのはキリスト教徒の義務であると主張した。奴隷制度と自由は基本的に両立できないと主張し、「片方かもう片方が死ななければならない」と言って妥協を不可能にした。1856年、ビーチャーは奴隷制度廃止運動家ジョン・C・フレモントの選挙運動に参加した。フレモントは共和党として初めての大統領候補者だった。そのような応援があったにも拘わらず、フレモントは民主党の候補者ジェームズ・ブキャナンに敗れた。南北戦争直前の時代、「血を流すカンザス」と呼ばれたカンザス準州での紛争では、ビーチャーが資金を集めてシャープス・ライフル銃を奴隷制度廃止運動家の集団に送った。武器は「数百の聖書」よりも多くの善をなす、とも言っていた。新聞はそれらの武器のことを「ビーチャーの聖書」と呼んだ。ビーチャーはその奴隷制度廃止運動家としての行動によって、南部では広く憎まれるようになり、何度も死の脅しをうけた。 南北戦争の1863年、エイブラハム・リンカーン大統領がビーチャーをヨーロッパでの講演旅行に派遣し、北軍側への支持を訴えさせた。ビーチャーの演説によって、ヨーロッパ諸国大衆の心をアメリカ連合国から離反させ、列強によるその認知を妨げることに貢献した。1865年4月に終戦を迎えると、この戦争で最初の砲弾が放たれたサウスカロライナ州サムター砦にビーチャーが演説者として招かれた。リンカーンが再度自らビーチャーを選び、「ビーチャーがいなければ旗を掲げることもなかったであろうから、旗を揚げる機会に演説するためにビーチャーを送ったほうがいいだろう」と述べた。
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奴隷制度廃止運動
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「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「奴隷制度廃止運動」の解説
詳細は「アメリカ合衆国における奴隷制廃止運動(英語版)」を参照 1750年代に始まり、独立戦争の間に奴隷制は(国全体と白人にとって)社会的な悪であり、行く行くは廃止すべきという考え方が広まった。北部の諸州は1780年から1804年までに解放法を成立させたが、その大半は段階的解放であり、解放された者には特別の立場が用意されたので、1860年になってもニュージャージー州では「永久奉公」の者が1ダースほども残っていた。 1780年のマサチューセッツ憲法は全ての人が「生まれながらにして自由かつ平等」を宣言した。奴隷のクウォーク・ウォーカーはこの憲法を根拠に自由を求めて告訴を行い自由を勝ち取って、マサチューセッツの奴隷制を廃止させた。 19世紀の前半を通じて、奴隷制を終わらせる運動がアメリカ合衆国中で強さを増していった。この闘争は、奴隷労働の仕組みから大きな利益を上げていた南部白人の強い奴隷制擁護派の中に反発を呼んだ。これらの奴隷所有者は奴隷制を他の強制労働とは区別して防衛しようとし、「特別の制度」と言い始めた。 大規模で資金もあるアメリカ植民地協会が、西アフリカのリベリアに作ったアメリカ植民地に戻りたいという元奴隷や自由黒人を船で運ぶ行動的な計画を作った。 1830年以降、ウィリアム・ロイド・ガリソンに指導された宗教的運動は奴隷制が個人の罪であると宣言し、奴隷所有者は即時に悔い改め、解放を始めるよう要求した。この運動は多くの議論を呼び、南北戦争の原因にもなった。 ジョン・ブラウンのような極少数の奴隷制度廃止運動家は、武器を取って奴隷の中からの蜂起を扇動したが、その他の者は法に添ったやり方を選んだ。 奴隷制度廃止運動 (1810-60) の影響力ある指導者 ウィリアム・ロイド・ガリソン - 「ザ・リベレーター」紙を発刊 ハリエット・ビーチャー・ストウ - アンクルトムの小屋の作者 フレデリック・ダグラス - 最も力ある反奴隷制論説家、元奴隷。『フレデリック・ダグラスの人生の物語』でも有名。 ハリエット・タブマン - 南部からの逃亡奴隷350人を援助。秘密結社「地下鉄道」の「指揮者」として知られた。 「武器」を取った奴隷の蜂起 (1700 - 1859) ニューヨークの反乱、1712年 ストノの反乱、1739年、サウスカロライナ ニューヨーク奴隷反乱、1741年 ガブリエルの反乱、1800年、バージニア州 ルイジアナ準州奴隷反乱、チャールズ・デスランズが指導、1811年 ジョージ・ボクスリーの反乱、1815年、バージニア州 デンマーク・ヴィージーの反乱、1822年、サウスカロライナ州 ナット・ターナーの反乱、1831年、バージニア州 アミスタッド号事件、1839年、スペイン船での反乱 「en:List of notable opponents of slavery」も参照
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奴隷制度廃止運動
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「ライサンダー・スプーナー」の記事における「奴隷制度廃止運動」の解説
スプーナーは奴隷制度廃止運動家として大きな名声を勝ちえた。その最も有名な著作は1845年に出版された『奴隷制度の違憲性』と題する本であり、奴隷制度廃止運動家の間では大きな賞賛を得たが、そうでない者からは批判を浴びた。この本は、アメリカ合衆国憲法が奴隷制度を支持しているかという問題について運動家の間に議論を起こすことに貢献した。ウィリアム・ロイド・ガリソンやウェンデル・フィリップスが率いる「分離派」は、憲法で奴隷を合法的に認め、その抑圧を強制していると論じた(例えば、第4章第2節における逃亡奴隷の捕獲条項)。南部の政治家が、その「特別な制度」の保護が、憲法の基づく部分的な妥協の一部であると主張しており、憲法上の妥協を繰り返し訴えていることを、ガリソンたちは引き合いに出していた。分離派は、自由州が奴隷州と政治的な統合を続けていることは、自由州の住民をして奴隷制度に加担させることになると論じ、憲法について「死との盟約であり、地獄との協定である」と非難した。より一般的には、ウェンデル・フィリップスが、不公正な法は判事によって法的に無効とされるべきであるというスプーナーの論点について議論した。 スプーナーは憲法の「文面」が奴隷制度を支持しているという主張に挑戦した。建国の父達が憲法を書いたときに奴隷制度を非合法化する「意図」はおそらく無かったことを認めたが、筆者の個人的な意図ではなく、文面の「意味」のみが強制力のあるものだと論じた。憲法の条項が通常奴隷制度を支持していると解釈されるが、実際には幾つかの条項で州に奴隷制度を法の下で設立することを禁じていると示すために、複雑な法の体系や自然法の論議を用いた。スプーナーの主張は、ゲリット・スミスや自由党のような憲法擁護派の奴隷制度廃止運動家に引用され、1848年の綱領の文面として採用された。元々ガリソンの分離派に属していたフレデリック・ダグラスは後に憲法擁護派の立場を認めるようになり、その心変わりを説明するためにスプーナーの論点を挙げた。 スプーナーはその著作を出版した時点から1861年まで、積極的に奴隷制度に反対する運動を行った。著作の後は陪審員による法の無視など逃亡奴隷を法的に守るための小冊子を出版し、逃亡奴隷に対して多くは無償で法的手続きを提供した。1850年代後半、その著作の写しが連邦議会議員に配付され、その内容に関する議論を引き起こした。奴隷制度擁護派だったミシシッピ州選出のアメリカ合衆国上院議員アルバート・ギャラティン・ブラウンですら、その議論の知的な厳格さを賞賛し、その時までに奴隷制度廃止運動家から訴えられた中でも最も恐ろしい法的な挑戦だと結論づけた。1858年、スプーナーは「奴隷制度廃止のための計画」を配付し、北部奴隷制度廃止運動家の援助で、奴隷と南部の奴隷非所有者が奴隷所有者に対してゲリラ戦を用いることを要求した。また、「ジョン・ブラウンと共謀して南部で奴隷暴動を奨励」した。さらにブラウンがバージニア州(現在はウェストバージニア州)ハーパーズ・フェリー襲撃に失敗して捕まえられた後で、ブラウンを逃がすための共謀にも参加したが実現しなかった。 1860年、ウィリアム・スワードから、まだ誕生してから日も浅い共和党を支持するように誘われた。スプーナーはジェファーソン政治哲学の自他共に認める信奉者であり、この要請を断固として断り、間もなく共和党の率直な批評家になった。スプーナーにとって共和党は、奴隷制度の拡張に反対を標榜するが、奴隷制度そのものに対して強く一貫して道徳的な立場を採ることを拒否する偽善者だった。スプーナーは「奴隷制度廃止」のために暴力を使うことを提唱していたが、南北戦争のときに南部州の脱退を妨げるために共和党が暴力を使うことを非難した。この戦争について幾つかの文書や小冊子を発行し、共和党の目的は奴隷制度を根絶することではなく、むしろ連邦を力で存続させることだと論じた。アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・スワードや上院議員チャールズ・サムナーなど血気盛んな共和党指導者を非難した。彼等は奴隷制度に反対する発言をするが、憲法を基本にした攻撃をしようとはせず、また軍事政策を報復と悪用に見立てようとしているというものであった。 スプーナーは奴隷制度を非難していたが、アメリカ連合国政府がスプーナーの哲学の基本である同意、憲法および法の原則によって脱退を表明する権利を認めていた。対照的に北部州は軍事力によって南部の権利を否定しようとしていた。スプーナーは声高に南北戦争に反対し、もはや代表を送っていない南部州がアメリカ合衆国から脱退する権利を戦争が侵害させていると論じた。南部人の意志に反して北部人は南部州を連邦に復帰させようとしているのだと考えた。州の脱退する権利は、奴隷が自由になる自然権から派生したと論じた。この論議は北部、および戦争が始まった後の南部では不人気であり、北部南部両政府の公式の立場には反するものだった。
※この「奴隷制度廃止運動」の解説は、「ライサンダー・スプーナー」の解説の一部です。
「奴隷制度廃止運動」を含む「ライサンダー・スプーナー」の記事については、「ライサンダー・スプーナー」の概要を参照ください。
奴隷制度廃止運動
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詳細は「奴隷制度廃止運動」を参照 北部での反奴隷制運動は1830年代と1840年代に盛り上がった。この期間は北部の社会に急速な変革が起こった時期であり、社会的・政治的に改革主義が拡がった時期であった。奴隷制度廃止運動家を含むこの時代の多くの改革者は、労働者の生活様式や労働習慣を様々なやり方で変革しようとし、労働者が産業化、資本主義化した社会の要請に応える手助けをした。 反奴隷制運動は、当時の他の改革運動と同様に、第二次大覚醒の遺産によって影響された。これはこの新しい国において、アメリカ人としての経歴も比較的新しい個人の改革を強調する宗教復活の期間であった。時代の改革精神はしばしば相反する政治的目標のある様々な運動によって表現されたが、ほとんどの改革運動は規律、秩序および拘束を通じて人間性を変えていくという大覚醒の原則を強調することで共通の未来を描いていた。 「奴隷制度廃止運動家」には当時複数の意味があった。ウィリアム・ロイド・ガリソンの信奉者、ウェンデル・フィリップスやフレデリック・ダグラスなどは「奴隷制の即座の廃止」を要求したので、言葉通りの者であった。より実際的な集団はセオドア・ウェルドやアーサー・タッパン等であり、即時の行動を望むが長い中間過程を経て段階的に解放を進めていく方が良いとしていた。「反奴隷制論者」はジョン・クィンシー・アダムズであり、奴隷制を制限できることを行い、可能な場合は止めさせたが、如何なる奴隷制度廃止運動にも加わらなかった。例えば、1841年に合衆国最高裁判所で争われたアフリカ人奴隷の反乱、いわゆるアミスタッド号事件の公判にアダムズは出席し、奴隷達は解放されるべきと主張した。南北戦争前の数年間、「反奴隷制論者」はリンカーンを初めとする北部の大多数を意味し、カンザス・ネブラスカ法や逃亡奴隷法という形での奴隷制自体とその影響の「拡大」に反対した。多くの南部人はガリソンの信奉者との区別もつかないままに、これらすべてを奴隷制度廃止運動家と呼んだ。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは奴隷制度廃止運動家の深い信条を説明して次のように言った。「全ての人は神の前に平等である。黒人の魂は白人のそれと同じくらい貴重である。神の子供の一人として他の者を奴隷にすることは、たとえそれが憲法で是認されているとしても、高次の法を犯していることである。」 ほとんどの奴隷制度廃止運動家、顕著な例はガリソンだが、ヤンキーのプロテスタントの理想である自己変革、産業、繁栄を強調することで、奴隷制を人の運命と労働の成果を制御できないものとして非難した。 最も熱心な奴隷制度廃止運動の一人、ウェンデル・フィリップスは奴隷勢力を攻撃し、合衆国の分裂を既に1845年に予感していた。 この50年間の経験は…奴隷の数が3倍になり、奴隷所有者が官職を独占し、政府の政策を決めている。国の力と影響力をここ彼処の奴隷制を支持するために使っている。自由州の権利を踏みつけ、国の裁判所を自分達の道具に使っている。これ以上この悲惨な同盟を続けることは狂気である。…このような実験をなぜ長引かせるのか? 奴隷制度廃止運動家は奴隷制をアメリカの白人の自由に対する脅威としても攻撃した。自由は単純に拘束が無いこと以上のものであり、戦前の改革者は真に自由な人は自分に拘束を掛けられる人であるとした。1830年代と1840年代の反奴隷制度運動家にとって、自由労働の約束と社会的上昇志向(昇進の機会、財産所有の権利および自身の労働の制御)が、個人を変える中心概念であるとしていた。 キューバを奴隷州としてアメリカに併合しようという、いわゆるオステンド・マニフェスト、および1850年の逃亡奴隷法に関する議論で党派的な緊張関係が持続し、1850年代半ばから後半に掛けては西部の奴隷制問題が国の政治の中心課題となった。 北部の幾つかの集団の中で反奴隷制度感情は1850年の妥協以後に高まりを見せ、対して南部の者達は北部諸州にいる逃亡奴隷を追求することや、北部に何年も住んでいる自由アフリカ系アメリカ人を奴隷だと主張するようなことも始めた。一方、奴隷制度廃止運動家の中には法の執行を公然と妨げようとする者がいた。逃亡奴隷法の侵犯は公然と組織化して行われた。ボストン市は、そこから一人の逃亡奴隷も戻されることがなかったことを自慢していたが、市のエリート階層であるセオドア・パーカーなどが、1851年4月には暴動を起こして法の執行を阻止する動きに出た。大衆の抵抗という様相は市から市に拡がり、特に1851年のシラキュースの運動(この年遅くのジェリー救援事件で盛り上がった)と1854年の再度ボストンでの運動が有名だった。しかし、1820年のミズーリ妥協と同じような問題が復活するまで、この問題は危機とまでは至らなかった。新しい問題とは、西部準州に対する奴隷制の適用であった。
※この「奴隷制度廃止運動」の解説は、「南北戦争の原因」の解説の一部です。
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