血を流すカンザス
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血を流すカンザス(ちをながすカンザス、英: Bleeding Kansas)、あるいは流血のカンザス(りゅうけつのカンザス、英: Bloody Kansas)、あるいは境界戦争(きょうかいせんそう、英: Border War)は、1854年から1861年のアメリカ合衆国カンザス準州および隣接するミズーリ州の町で起こった、政治的な一連の暴力的衝突である。対峙したのは自由州からカンザス準州に来た反奴隷制度を掲げる集団と、「ボーダー・ラフィアンズ」(境界を越えた暴漢)と呼ばれる隣接するミズーリ州から入ってきた奴隷制度擁護派の集団だった。この衝突の中心的な原因は、カンザスが自由州としてアメリカ合衆国に加入するか、奴隷州として加入するかという問題だった。この衝突は奴隷制度に関する北部と南部の代理戦争となった。「血を流すカンザス」という言葉は「ニューヨーク・トリビューン」紙のホレス・グリーリーが初めて使ったとされている[1]。この衝突がもたらした結果は直接南北戦争の前兆となった。
- ^ U-S-History.com.
- ^ Klunder, Willard Carl (1996). Lewis Cass and the Politics of Moderation. Kent, OH: Kent State University Press. p. 168. ISBN 0-87338-536-5 2008年5月4日閲覧。
- ^ NEEAC. History of the New-England Emigrant Aid Company. Boston: John Wilson & Son, 1862.
- ^ William Frank Zornow, Kansas: a history of the Jayhawk State (1957) p 72
- ^ James, Richardson. “A Compilation of the Messages and Papers of the Presidents”. Project Gutenberg. 2008年3月18日閲覧。
- ^ 1856 Congressional Report on the Troubles in Kansas
- ^ Dale Watts, "How Bloody Was Bleeding Kansas? Political Killings in Kansas territory, 1854-1861," Kansas History (1995) 18#2 pp. 116-129. online
血を流すカンザス
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「カンザス州の歴史」の記事における「血を流すカンザス」の解説
詳細は「血を流すカンザス」を参照 開拓者達が接近していることと目的が相反していることにも拘わらず、1855年3月30日にカンザス準州議会の選挙が行われるまでは、暴力についてはほとんど蓋がされていた。この日、州境を越えて流入した「ボーダー・ラフィアンズ(英語版)」と呼ばれたミズーリ州人が奴隷制擁護派の代議員に投票する票で投票箱を埋めた。その結果、一つの選挙区(後のライリー郡)を除いて全ての選挙区で奴隷制擁護派の代議員が選ばれ、最初の公式議会は奴隷制擁護派が圧倒するものになった。 1855年から1858年、カンザス準州では多くの暴力沙汰や幾つかの戦闘行為が起こった。この期間は「血を流すカンザス」あるいは「境界戦争」と呼ばれ、直接南北戦争の予兆となった。血を流すカンザスの中で大きな出来事には、ワカルーサ戦争、ローレンス襲撃、ポタワトミ虐殺、ブラックジャックの戦い、オサワトミの戦い、およびメルダジーン虐殺があった。 ワカルーサ戦争 1855年12月1日、ミズーリ州人の小さな軍隊がダグラス郡保安官サミュエル・J・ジョーンズに率いられ、自由州人の強い基盤であるローレンスを包囲し、これが後にワカルーサ戦争と呼ばれることになった。奴隷制擁護派敵対者の影響と蔓延の下で、ミズーリ州西部はその内部まで混乱の渦になり、奴隷制廃止論者のローレンスの征服のために軍隊をはき出すことになった。大混乱の中で休戦条約の交渉が宣言され、その後間もなく条約が大声で読み上げられた。これで混乱は収まりその条件が一般に受け入れられた。 ローレンス襲撃 1856年5月21日、ジョーンズ保安官に率いられた奴隷制擁護派軍隊が再度ローレンスを攻撃し、2人の男性を殺し、自由州ホテルを燃やし尽くし、2台の印刷機を破壊し、住家に略奪に入った。 ポタワトミ虐殺 ポタワトミ虐殺は1856年5月24日の夜から25日の朝にかけて起こった。ローレンス襲撃に対する反応と思われる行動で、ジョン・ブラウンと一群の奴隷制廃止派(そのうち数人はポタワトミ・ライフルズの一員)が幅広の刀を用い、フランクリン郡ポタワトミ・クリークの北で、奴隷制擁護派と考えられる5人の開拓者を殺した。後にブラウンはポタワトミ虐殺の間の殺人には参加しなかった言ったが、それを承認したとも言った。この殺人後に行方を眩まし、2人の息子、ジョン・ジュニアとジェイソンが逮捕された。この2人が監禁されている間に虐待されたということであり、ジョン・ジュニアは精神的な傷を負った。6月2日、ブラウンはブラックジャックの戦いでヘンリー・ペイト大尉が率いるミズーリ州人の1隊を攻撃して成功した。ペイトとその部下はブラウン達を捕まえるためにカンザスに入っていた。その年の秋、ブラウンは地下に潜り、ゲリラ活動を続けた。
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血を流すカンザス
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「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「血を流すカンザス」の解説
詳細は「血を流すカンザス」を参照 カンザスの土地が開放されるや、開拓者達が新準州内に殺到した。その中には奴隷制擁護派も反対派もいた。直ぐに両派の間に暴力沙汰が持ち上がった。ニューイングランドからの奴隷制度廃止運動家達はトピカ、ローレンスおよびマンハッタンに入植した。奴隷制擁護派は主にミズーリ州から来ており、レブンワースやルコンプトン(英語版)に入った。 1855年、準州議会議員を選ぶための選挙が行われた。このとき法的に投票資格のある者は1,500人しかいなかったが、ミズーリ州から流入した者達のためにその数は6,000人を超えた。その結果は奴隷制擁護派の議員が多数派になった。自由土地支持者がこの結果に怒り、トピカで独自の議会を作り上げた。奴隷制擁護派のミズーリ州人集団が1856年5月21日にローレンスを襲撃した。この後2年間も暴力沙汰が続き、ルコンプトン憲法(英語版)が発布されたときに収まった。 この「血を流すカンザス」と呼ばれる暴力沙汰は民主党を揺り動かし、以前にも増して党派的抗争が加熱した。マサチューセッツ州選出の上院議員チャールズ・サムナーは上院で「カンザスに対する犯罪」と題する演説を行った。この演説は南部とその「特別な制度」を酷評するものだった。その演説から数日後にサウスカロライナ州選出の下院議員プレストン・ブルックスが上院の休会中にサムナーに近付き、杖で殴って重傷を負わせた。この事件が党派抗争の緊張をさらに高めるものになった。
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血を流すカンザス
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「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「血を流すカンザス」の解説
詳細は「血を流すカンザス」を参照 1854年のカンザス・ネブラスカ法の成立後、境界戦争がカンザス準州で勃発した。そこでは、奴隷州と自由州のどちらで合衆国に加盟するかという判断を住民に委ねられていた。奴隷制度廃止運動家のジョン・ブラウンは積極的に反抗し、「血を流すカンザス」では多くの白人南部人と同様に殺人も行った。同時に、奴隷勢力が連邦政府を席捲するという恐れが反奴隷制を掲げる共和党を強くさせ議会に送り込んだ。
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