伊豆諸島
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人口
伊豆諸島の人口は、日本の離島平均よりもゆっくりと減少している[9]。
年 | 伊豆諸島 | 日本の離島 | 日本の合計 |
---|---|---|---|
1960 | 38,707 | 923,062 | 94,301,623 |
1970 | 32,539 | 736,712 | 104,665,171 |
1980 | 31,902 | 630,536 | 117,060,396 |
1990 | 30,032 | 546,505 | 123,611,167 |
2000 | 28,756 | 472,312 | 126,925,843 |
2005 | 26,242 | 422,712 | 127,767,994 |
歴史
北部に関しては縄文時代から人々が暮らしていた痕跡があり、各島からは縄文遺跡が発見されている。さらに三宅島では弥生時代の遺跡が発見されており、この時代には定住が始まっていたことが窺われる。稲作文化については、遺跡が建設された後、栄えることになる。
公家や武家、僧侶などの高貴な身分の者が流罪によって流されることが多かったため、京の都の文化や風俗が持ち込まれることも多かった。有名な流人としては源為朝らが挙げられる。
江戸時代は天領だった。旧伊豆国の区域ながら、物産の売買などは江戸に置かれた島方会所(しまかたかいしょ)を通じて行われていたため、江戸との繋がりが強かった[4]。このため明治初期に韮山県、足柄県、静岡県の所属となった時期、島民は東京府への移管を望み、静岡県庁でも島と東京の商業上の紛争で東京の裁判所へ出向くことが負担となっており、1878年に東京府に編入されることとなった[4]。
古くは伊豆五島または伊豆八島などと呼ばれていたこともあるようであるが、江戸時代の終わりまでには伊豆七島の名が定着していた。その後はこれが一般化し、伊豆諸島全体を指す言葉としてもしばしば使われている。しかし人が定住している島だけで9島を数える状況と一致しない。
略年表
- 674年:麻績王の子が大島に流罪。
- 680年:駿河国から分けるかたちで伊豆国が設けられる。当時は賀茂郡に属していた[10]。
- 724年(神亀元年):伊豆国を遠流の地として定める。
- 1156年(保元元年):保元の乱で敗れた源為朝が大島に流罪。
- 室町時代~戦国時代:関東管領(山内上杉家)、相模三浦氏、後北条氏へと支配者が変わった。
- 1606年(慶長11年):関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家が八丈島に流罪。公式には最初の八丈流人。
- 江戸時代:江戸幕府の直轄地となる。
- 1698年(元禄11年):英一蝶が三宅島に流罪。将軍徳川綱吉の逝去に伴う大赦により1709年(宝永6年)に許されて江戸へ帰る。
- 1714年(正徳4年):江島生島事件により、歌舞伎役者の生島新五郎が三宅島に(1742年[寛保2年]に赦免)、侍医の奥山交竹院が御蔵島に流罪。
- 1729年(享保14年):奥山交竹院らの尽力により、三宅島の属島扱いされてきた御蔵島が「独立」を果たす。
- 1780年(安永9年)- 1785年(天明5年):青ヶ島で噴火。特に天明5年4月-5月の噴火では202名が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった132名は全員死亡したと推定される。これ以後、佐々木次郎太夫ら島民が帰還を果たす1835年(天保6年)までの50年間、青ヶ島は無人島となる。
- 1827年(文政10年): - 徳川譜代の旗本・近藤重蔵守重の長男近藤富蔵が、父の地所争いの相手一家7人を殺傷した罪で八丈島に流罪。これが最後の流人となった。
近代以降の沿革
- 明治初年時点では全域が伊豆代官管轄の幕府領であった(24村)。
知行 | 島 | 村数 | 村名 |
---|---|---|---|
幕府領 | 大島 | 6村 | 岡田村、元村、泉津村、野増村、差木地村、波浮港村 |
利島 | 1村 | 利島 | |
新島 | 2村 | 新島本村、若郷村 | |
神津島 | 1村 | 神津島 | |
三宅島 | 5村 | 伊豆村、神着村、伊ヶ谷村、阿古村、坪田村 | |
御蔵島 | 1村 | 御蔵島 | |
八丈島 | 5村 | 大賀郷村、三根村、樫立村、中之郷村、末吉村 | |
八丈小島 | 2村 | 鳥打村、宇津木村 | |
青ヶ島 | 1村 | 青ヶ島 |
- 慶応4年6月29日(1868年8月17日):全域が韮山県の管轄となる。
- 1869年(明治2年):宇喜多氏(宇喜多秀家の子孫)が赦免される。「浮田」および「喜多」の姓を名乗る末裔の一部が秀家らの墓守として現在も残留。
- 明治4年11月14日(1871年12月25日):第1次府県統合により、足柄県の管轄となる[11]。
- 1876年(明治9年)4月18日:第2次府県統合により、静岡県の管轄となる[12]。
- 1878年(明治11年)
- 1880年(明治13年):近藤富蔵が赦免される。その後、八丈島にある一観音堂の堂守として1882年に再渡島し、1887年に83歳で没。
- 1888年(明治21年):玉置半右衛門が東京府から鳥島の無料拝借の許可を得、羽毛採取の目的でアホウドリの乱獲を開始。
- 1902年(明治35年):鳥島で大噴火があり、玉置の人足ら当時の住民125名全員が死亡。玉置自身は家族とともに1893年に東京に移住していたため無事。
- 1908年(明治41年)
- 1923年(大正12年)10月1日:利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島に島嶼町村制施行[15]。
- 1940年(昭和15年)4月1日:島嶼町村制が普通町村制に移行。同時に青ヶ島に普通町村制施行。青ヶ島村(現存)が単独村制施行。
- 1943年(昭和18年)7月1日:東京都制の施行により東京都の管轄となる。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)5月3日:地方自治法施行により、鳥打村、宇津木村(現・八丈町)が設置される。
- 1951年(昭和26年):絶滅したと思われていたアホウドリが鳥島で再発見される。
- 1952年(昭和26年)4月9日:もく星号墜落事故、乗客・乗員37名全員死亡。
- 1954年(昭和29年)
- 10月1日:三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併して八丈村が発足(18村)。
- 11月1日:若郷村が新島本村に編入(17村)。
- 1955年(昭和30年)4月1日(2町8村)
- 1956年(昭和31年)2月1日:三宅村・阿古村・坪田村が合併して、改めて三宅村が発足(2町6村)。
- 1963年(昭和38年)8月17日:藤田航空(同年11月に全日空に吸収合併)のデハビランド・ヘロン1B、八丈島空港発羽田空港行きが離陸直後に八丈富士に激突、19名死亡(藤田航空機八丈富士墜落事故)。
- 1965年(昭和40年):群発地震により、鳥島気象観測所が閉鎖。
- 1969年(昭和44年)3月:ライフラインをはじめとする生活条件の厳しさを理由とした八丈小島から八丈島への島民の移住が開始され、同年6月に完了。「全国初の全島民完全移住」として注目された。これ以降、八丈小島は無人島となる。その後、野ヤギ(cf.)の大繁殖が環境問題になる(経緯については別項「八丈小島#生物相」を参照)。
- 1983年(昭和58年):三宅島・雄山の噴火により阿古地区が溶岩流に呑み込まれる。
- 1986年(昭和61年)11月15日:大島の三原山が噴火。この後11月21日に全島避難(約1ヶ月)。
- 1993年(平成5年):東京都島しょ振興公社[16]の協力のもと大島、利島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島を結ぶヘリコミューター路線「東京愛らんどシャトル」の運航を開始。
- 1992年(平成4年)4月1日:新島本村が改称して新島村となる。
- 2000年(平成12年)9月2日:7月から続いていた三宅島・雄山の噴火により、全島避難。
- 2001年(平成13年)8月29日:八丈町が八丈小島における野ヤギの捕獲を開始。
- 2003年(平成15年)10月7日:午前8時27分頃、八丈島空港へ着陸姿勢に入った羽田空港発のエアーニッポン(ANK)821便のボーイング737(乗客乗員62名)が、八丈島東方海上にて海上自衛隊厚木基地所属のP-3C哨戒機(乗員9名)とのニアミス(最接近時の距離、わずか30m)。10月11日に ANK が国土交通省に報告。
- 2005年(平成17年)2月1日:15時 平成12年以来、4年5ヶ月間続いていた三宅島の避難指示が解除される。
- 2008年(平成20年)4月26日:噴火以来7年8ヶ月間、避難指示解除以来3年3ヶ月間途絶えていた羽田空港〜三宅島空港間の航空路が再開される。
産業
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島によって少しずつ異なるが、漁業、農業、観光が中心になっている。同じ地域に漁村と農村が共存していると考えたほうが良い島もある。過去には鳥島においてアホウドリの捕獲や鳥糞石(グアノ)の採取も行われていた。
特産物
- くさや:多くの日本人の認識では、代名詞的に当地を代表する特産物である。
- アシタバ(明日葉):八丈草(ハチジョウソウ)とも呼ばれる伊豆諸島原産のセリ科植物。当地の産物としてとりわけよく知られているものの一つである。
- 島寿司
- 島焼酎:狭義の「島焼酎」[注釈 1]。地域に特産の焼酎はこの名で呼ばれ、盛んに醸造されている。島ごとに特徴が異なることから国内を中心にファンも多い。
- 抗火石 - 新島など。
注釈
出典
- ^ a b c d “伊豆諸島(いずしょとう)とは”. コトバンク. 2018年3月31日閲覧。
- ^ 「伊豆-小笠原諸島の砂」p.31『地質ニュース』584号/2003年4月号(産業技術総合研究所地質調査総合センター)
- ^ 「東洋のガラパゴス」小笠原へ~船旅を満喫 時事通信(2023年7月10日閲覧)
- ^ a b c d e [東京探Q]伊豆諸島 なぜ静岡でなく東京?江戸以来 経済圏を形成『読売新聞』朝刊2023年6月19日(都民面)2023年7月10日閲覧
- ^ 環境省 富士箱根伊豆国立公園公式サイトの区域図より
- ^ 以下、柴(2016)
- ^ 内山他(2002)
- ^ 佐竹他(1982),p.24
- ^ a b Gotoh, H.; Maeno, Y.; Takezawa, T.; Murata, T.; Takahashi, N. (2010). “Infrastructure maintenance and disaster prevention measures on isolated Islands: the case of the Izu Islands near tokyo”. In Favro, S.; Brebbia, C. A.. Island Sustainability. WIT transactions on ecology and the environment (Vol. 130). WIT Press. ISBN 978-1-84564-434-5
- ^ 『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。「伊豆国」の項目(p.75)。
- ^ 明治4年太政官布告第594号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治9年太政官布告第53号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治11年太政官布告第1号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ a b 『官報』第7352号(明治40年12月28日)「明治40年内務省令第30号」
- ^ 『官報』第3281号(大正12年7月7日)「大正12年内務省令第19号」
- ^ 東京都島しょ振興公社 概要
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