死者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:23 UTC 版)
正確な死傷者の数字は存在しておらず、死亡率は地域によって大きく異なる。都市部では、感染爆発前の人口が多いほど異状死の期間が長くなる。ユーラシアでは約7500万人から2億人が死亡した[より良い情報源が必要]。14世紀の黒死病の死亡率は、20世紀最悪とされるインドで起きたペスト菌の感染爆発(ある都市では人口の3%が死亡)よりも遥かに大きかった。黒死病によって夥しい数の遺体が生じたため、ヨーロッパでは数百や数千という人骨を納める大量の埋葬地が必要となった。掘り返された大量の埋葬地が黒死病の生物学的、社会学的、歴史的、人類学的な意味合いの解釈や定義を考古学者に続けさせている。 中世の歴史家フィリップ・ダイリーダーによると、ヨーロッパ人口の45-50%がペストで死亡した可能性が高いという。ノルウェーの歴史家オーレ・ベネディクトーは、それがヨーロッパ人口の60%に及んだ可能性を示唆している。1348 年、この病気は急速に蔓延したため、医師や政府当局がその起源を考える時間を持つ前に、ヨーロッパ人口の約3分の1が既に死亡してしまった。人口密度の多い都市部では、人口の50%が死亡することも珍しくなかった。パリでは人口10万人の半分が死亡した。イタリアでは、フィレンツェの人口が1338年の11万-12万人から1351年には5万人に減少した。ハンブルクとブレーメンでは少なくとも人口の60%が死亡した。この病気によりロンドン市民も同程度の割合で死亡した可能性があり、1346から1353年にかけて約62,000人の死者が出ている。フィレンツェの税務記録は、1348年に同市人口の80%が4ヶ月以内に死亡したことを示している。1350年以前はドイツに約17万あった集落が、1450年までに4万近くに減少した。この病気は一部地域に到来しておらず、最も人里離れた僻地は伝染に対して脆弱ではなかった。15世紀の変わり目までペストはフランドル地方のドゥアイに現れておらず、エノー伯領、フィンランド、ドイツ北部、ポーランド地域の人口にはさほど深刻な影響を及ぼさなかった。黒死病で亡くなった人の看病をした僧侶や修道女は、特に大きな打撃を受けた。 アヴィニョン捕囚の医師レイモンド・シャルメル・ド・ビナリオは、1347-48年、1362年、1371年、1382年のペスト感染爆発による死亡率の減少を観察して「De epidemica」という論文にした。最初の感染爆発では、人口の2/3が病気にかかりほぼ全員の患者が死亡した。二度目では人口の半分が病気になったが、一部しか死ななかった。三度目は1/10が影響を受け、多くの人が生き残った。四度目の発生では20人に1人だけが発病し、その大半が生き残った。1380 年代のヨーロッパでは、主に子供たちが感染した。シャルメル・ド・ビナリオは瀉血が効果がないと認識しており(彼は自分の嫌いなローマ教皇庁職員のために瀉血を処方し続けたが)、ペストは実際のところ全て占星術的要因によって引き起こされており、不治であると主張した。彼は自分自身に治療を一切施さなかった。 この当時の中東(イラク、イラン、シリア含む)については、人口の約1/3が死亡したという推定が最も広く受け入れられている。黒死病によりエジプト人口の約40%が死亡した。カイロでは人口60万人が、恐らく中国西部最大の都市では住民の33-40%が8カ月のうちに死亡した。 イタリアの年代記制作者アニョーロ・ディ・トゥーラは、ペストが1348年5月に到来したシエナでの経験を記している。 父が子供を、妻が夫を、兄弟の片割れがもう一方を見捨てていた。というのも、この病気は息や視線を通して襲ってくると思われていたのだ。そして、そのように人々は死んでいった。また、お金や友情のために死者を埋葬する人など誰も見つからなかった。司祭も連れず、聖務日課も持たずに、遺族の人達ができる限りきれいに家族の遺体を壕に運んできた...大きな穴が掘られ、多くの死者が深く積み重ねられた。昼夜を問わず何百人もの人が死んだ...そして、壕が満載になるとすぐに追加で掘られた...そして私アニョーロ・ディ・トゥーラは...5人の子供を自分の手で埋葬した。そして、大地にまばらに埋められた者達もいたので、犬たちが彼らを引きずり出し、街中の多くの遺体を食い尽くした。全員に死が待ち構えていたので、誰かの死で泣いた人は誰もいなかった。また、あまりに大勢の人が死んだため、誰もが世界の終わりだと信じていた。
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