Sinclair Radionics
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「シンクレア・リサーチ」の記事における「Sinclair Radionics」の解説
1961年7月25日、サー・クライブ・シンクレアはイギリスのケンブリッジに Sinclair Radionics を設立した。設立資金は Practical Wireless 誌に記事を書いて稼いだ。Sinclair Radionics はHi-Fiオーディオ製品、ラジオ、電卓などを開発した。1963年、最初のラジオ Sinclair Slimline をキットの形態で発売した。翌年、「世界最小のラジオ」と銘打って Micro-6 という超小型ラジオを発売。これに別売の Transrista を使うと腕時計のように手首に装着できた。1965年、「世界初のポケットサイズのFMラジオ」と銘打って Micro-FM を発売したが、技術的問題があって失敗に終わっている。しかし、極東でその不正コピー品が製造された。1967年には最後のラジオキット Micromatic がやはり「世界最小のラジオ」と銘打って発売された。Micromatic は1971年まで販売された。1971年5月には、Sinclair Radionics は85,000ポンドの利益を上げ、563,000ポンドの回転資金を有していた。翌年には、それぞれ97,000ポンドと761,000ポンドに成長していった。 1966年、同社は Stereo 25 という低価格プリアンプでHi-Fiオーディオ機器市場に参入した。1964年に安く手に入れたトランジスタを使っていたが、1968年には新たなトランジスタが入手困難となって製造が止まった。1969年、代替として Stereo Sixty を発売。これが人気となり、Project 60 としてシリーズ化された。Project 60 製品はよく売れ、1972年には Project 605 が後継として登場した。1974年にはさらに Project 80 を発売。1973年9月、シンクレアは Ablesdeal というシェルフカンパニー(売却目的のためだけに設立された経営実態のない企業)を購入し、Sinclair Radionics と自身の興味がかみ合わなくなったときの保険とした。1973年5月の回転資金は180万ポンドになった。 1966年、Sinclair Radionics は世界初のポータブルテレビ Microvision を開発した。しかし、コストがあまりにも高かったため発売することはなかった。1976年、これを改良した Microvision TV1A/MON1A を99.95ポンドで発売した。しかし予想したほど売れず、12000台の在庫を抱えたため、安くして売りさばいた。このため 480,000ポンドの損失を計上した。サー・クライブ・シンクレアは1978年に発売した TV1B はもっと売れると考えていたが、これも期待外れだった。ポータブルテレビの技術は Binastione に売却した。 1970年代の主要製品は小型電卓である。1972年、世界初の薄型電卓 Sinclair Executive を79.95ポンドで発売。機能は基本的なものだけで、発光ダイオードを表示に使っていたため、電池の寿命が短かった。Executive は驚異的な売れ行きを示し、180万ポンドの売り上げをもたらした。1973年、24.95ポンドと超低価格を実現した Executive Memory を発売。1974年には科学技術計算機能を備えた Sinclair Scientific を49.95ポンドという低価格で発売した。逆ポーランド記法を使用し、5桁の仮数部と2桁の指数部で数値を表示した。1977年、これを改良した Scientific Programmable を29.95ポンドで発売。さらに17.22ポンドにまで低価格化した Scientific Programmable Mark 2 を後に発売した。 1975年、Sinclair Oxford 300 という科学技術計算用電卓を29.95ポンドで発売。さらに、ハイエンド電卓市場向けに金や銀を外装に使った Sinclair Sovereign を発売した。この電卓は技術の高さとデザインが好評で、短期間ながらよく売れた。 1975年8月、Black Watch という5桁のLED表示の腕時計を発売(キットは17.95ポンド、完成品は24.95ポンド)。しかしバッテリーと精度に問題があり、大きな損失を計上した。
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Sinclair Radionics
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「クライブ・シンクレア」の記事における「Sinclair Radionics」の解説
シンクレアの Micro Kit のアイデアは、A-レベル(英語版)の試験を受ける3週間前の1958年7月19日にノートに書かれていた。シンクレアは、Model Mark I と名づけたラジオの回路図と部品表を書き、コストが詳細に計算し、さらに雑誌への広告掲載費用も計算していた。シンクレアは月産1000個で、部品をどれだけ注文し、どれだけ値引きしてもらえるかなどを見積もっていた。 1959年1月、彼の書いた本 Practical transistor receivers Book 1 が Bernard's Publishing から出版され、同年中に増刷された(その後も9回増刷された)。また、ステレオに関するハンドブックも書き、1959年6月に出版された(14年間で7回増刷された)。シンクレアが Bernard's の従業員として書いた最後の本は Modern Transistor Circuits for Beginners で、1962年5月に出版された。この間、彼は Bernard Babani に雇われ、13冊の実用的技術書を生み出した。 シンクレアはついに自分のビジネスを開始することを決心した。1961年、Sinclair Radionics Ltd. として会社名を届け出た。Sinclair Electronics は既に存在していたためである。Sinclair Radio は使われていなかったが、シンクレアにはふさわしいと思えなかった。1961年7月25日、Sinclair Radionics を設立した。 シンクレアは発明品を広告し部品を購入するのに必要な資金を調達する試みを2回行った。彼はプリント基板キットを設計し、いくつかの技術をライセンス提供した。そして小型トランジスタラジオの設計を行い、それをキット形態で生産するための後援者探しに時間を費やした。最終的に、彼の会社の55%の権利を3000ポンドで購入してくれる人を見つけたが、取引は結局うまくいかなかった。 資金調達がうまくいかないため、彼はロンドンのフリート街近くの United Trade Press (UTP) という出版社で Instrument Practice 誌の編集者として働くことになった。同誌にシンクレアの名前が編集助手として出るようになったのは1962年3月からである。シンクレアはプレーナー型シリコントランジスタの製法とその特性を紹介し、1962年末までに入手可能になって欲しいと希望を述べていた。シンクレアは以前よりさらに小型化に魅入られていった。シンクレアは半導体デバイスの特性調査を引き受け、その結果は1962年9月から1963年1月の間、4回にわたって連載された。 彼の名は1969年4月まで同誌上に見られた。UTPを通してシンクレアは36もの製造業者の数千のデバイスに触れることができた。彼は Semiconductors Ltd に連絡し、同社が不合格とした部品を自分で修理して使うので売って欲しいと申し出た。彼は小型ラジオの設計図を同社に渡す代わりに、同社のトランジスタ10000個を1個6ペンスで買い取る取引をした。それを独自の品質管理試験で調べ、4段階にレベル分けし、1ポンドが240ペンスの時代の当時、1個100ペンス前後で販売した。 Sinclair Radionics は1979年まで存続し、様々な製品と会社を生み出した。小型アンプを初めとして、同社は設計と品質とアイデアの斬新さで名が知られるようになった。大量生産による低価格化が全体的な方針であった。この考え方は当たれば巨万の富が得られるが、外れれば破産の危険がある。当初、その方針に必須の戦略はキット形式の生産だった。
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