1990年代:冷戦後
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1990年代の初めに日米関係は第二次大戦後のいかなる時よりも不確実なものになっていた。長く続く日米安保を維持し、ますますアメリカ主導を強める日本とアメリカは、民主主義的な価値観を推し進め、世界における安定と開発に関する利害に基づいた強く多面的な関係を築く為、日本がほぼ一方的にアメリカの要求に協力した。2つの社会と経済はますます絡み合うように、日米関係は日本がアメリカの一方的要求を受け容れた事によって1970年代から1980年代の間にかけて改善した。1990年には、両国の国民総生産(GNP)の合計は世界の約3分の1に達した。日本はアメリカの輸出の11%(カナダを除く他のどの国よりも多い)を受け取り、アメリカは日本の輸出の約34%を購入した。1991年、日本はアメリカに対し1480億ドルの直接投資を行い、アメリカは日本に対し170億ドル以上を投資した。1000億ドルのアメリカ国債の一部は日本によって保有され、アメリカの財政赤字の多くを補った。経済的な交流は科学・技術・旅行などその他多岐にわたった。1980年代後半に傷ついた両国の関係は確かな発展を遂げた。それだけでなく、日本とアメリカの両国国民の大多数が「日米関係が死活的に重要であると信じている」ことを世論調査は明らかにし続けていた。 1990年代初めの冷戦後の環境において、世界に影響を与える力の源として、軍事力と比較して経済力の重要性が増加した。この変化は日本やアメリカ、その他の大国の地位に影響を与えたと考えられていた。 ソビエトの脅威の後退・日本の経済力の台頭・ますます増えるアメリカと日本の相互作用(とそれに付随して発生する論争)やその他の要素は、日本の世論においては特筆すべき変化はなかったにもかかわらず、アメリカの対日世論の変化を決断させた。アメリカにおけるこの変化は、警戒すべきはソ連の軍事的脅威なのかそれとも日本の経済的脅威なのかというより深刻な疑問の中に反映されていた。1989年と1990年に行われた一連の調査では、日本の挑戦がより深刻であると回答した者のほうが多かった。同様に1990年初頭に行われた投票から得られた結果によれば、「かつての経済的な繁栄から滑り落ちた」アメリカ人の怒りを反映したアメリカの日本に対する態度に対して、ほとんどの日本人は否定的に捉えていると回答した。その一方で、日本の世論は過去のように、アメリカと頻繁に相談すること無く、自国の問題に対処する能力を持ち合わせているというさらなる自信を示していた。日本が抱いていたアメリカが世界の指導者であるという確信も弱くなった。 両国において日米関係を新しくまたは「修正主義」的に捉える者が現れた。日本では一部の評論家がアメリカは弱く、日本に依存しており、世界経済における競争で勝つことは出来ないと主張した。彼らは日本はもっと独立した道をとるべきだと主張した。アメリカでは著名な評論家が、日本政府が管理することのできない、アメリカが封じ込める必要のある、忌々しい日本経済について警告した。 それと同時に、両国において世論の変化を誇張することは簡単なことだった。日本人にとって未だにアメリカは最も親密な友人であり、彼らを外国の脅威から守る最も重要な守護者であり、彼らの最も重要な経済的なパートナー、また市場であり、与えるべきものを多く持ち、羨むべきものも多く持つライフスタイルの模範であった。それだけでなく、大多数のアメリカ人は日本のことを肯定的に捉えており、日本の様々な芸能を高く尊敬し、アメリカが日本の防衛に参加することを支持していた。 冷戦が終わり、日米で政権交代が起こると、日本とアメリカとの関係は不確実性と摩擦の時代に突入した。1993年の暮れにGATTのウルグアイ・ラウンドは良好な結果に終わり、国内の穀物の生産を削減する代償として、一部のコメの輸入を許容した日本の決断は貿易問題のさらなる発展のための基礎となったが、2国間貿易において増え続けるアメリカの貿易赤字のため、ワシントンは東京に対してアメリカの製品を流通させる為に市場を開放し、特定の目標を設定するべきだと要求した。15か月にわたり対話を続けた後、1994年10月1日に日本とアメリカはアメリカ製品を日本の3つの主要な市場を開放する協定を締結することで合意した。これらは日本の保険市場と通信と医療機器分野における政府調達だった。アメリカ製の自動車と自動車部品と自動車の製造で使われる板ガラスの分野では合意に至らなかった。 1994年5月下旬に日米関係を全ての分野において危くしかねないと思われていた貿易摩擦に関するハイレベル対話が行われ、枠組み作りを出来るだけ早く再開することで合意した。枠組み作りの対話自体は失敗に終わったが、高集積回路に使われるセラミックスの開発におけるハイテクの共同研究、機械の製造に使われる炭素繊維の合成、タンパク質の結晶のデータ収集、環境にやさしい施設を建設するハイテクの共同研究を開始することを両国は5月に明らかにした。
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