1990年代: 内戦と組織設立
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「ニンジャ (コンゴ共和国)」の記事における「1990年代: 内戦と組織設立」の解説
1969年、コンゴ共和国に左派過激派のクーデターが起こり、コンゴ労働党による一党独裁の社会主義国家コンゴ人民共和国が誕生した。1991年のソ連崩壊の影響で、社会主義国家としての存続が難しくなったため、大統領でコンゴ労働党党首のドニ・サスヌゲソは国名をコンゴ共和国に戻し、コンゴ労働党を与党とした形で多党制を認めた。多党制といっても、各党は西洋的な意味での政党ではなく、その実態は民兵を有する軍閥であった。サスヌゲソは、コブラという民兵組織を持った。1992年に大統領となったパスカル・リスバは、ココイェ、ズールーという民兵組織を持った。 そしてコンゴ民主統合発展運動(英語版)の党首ベルナール・コレラ(英語版)が作った民兵組織がニンジャである。コンゴ共和国は国民の半分ほどがコンゴ人であり、コンゴ人は主に共和国南部に住む。コンゴ人の内、首都ブラザヴィルやその近郊のプール地方に住む人々はラリ人(英語版)である。コレラもまたプール地方出身であり、ニンジャはラリ人グループを中心に作られた。 1993年のコンゴ議会選挙(英語版)が原因で与野党の対立が激化し、ニンジャはコブラと連携してココイェと対立、内戦となった。1994年に停戦となり、1995年に与野党間和平合意が成立した。これにより、各軍閥の民兵は武装解除され、国家憲兵や武装警察などの扱いとなった。この武装解除にはユネスコも協力している。 もっとも、実際には武装解除はうまくいかず、民兵組織は残った。コレラは首都ブラザヴィルの市長となり、ニンジャも首都ブラザヴィル、バコンゴ(英語版)地区、マケレケレ地区などを拠点とした。平和時には民兵への給与の支払いが滞りがちで、ニンジャの士気は低下した。 1997年6月、翌月の大統領選を前にして、再びリスバ現大統領(コンゴ正規軍およびココイェ軍閥、ズールー軍閥、マンバ軍閥)とサスヌゲソ前大統領(コブラ軍閥及びコンゴ正規軍のサスヌゲソ派)とが対立し、コンゴ共和国内戦(英語版)が始まった。内戦当初、コレラ(ニンジャ軍閥)は中立を保っており、ニンジャ支配地域は平和を保っていた。 9月、コレラはリスバ現大統領に味方し、コンゴの首相に任命された。ニンジャ軍閥もリスバ派として戦争に参加した。コレラはニンジャをココイェ軍閥に合流させて、新組織コンゴ解放国民運動 (Mouvement National pour la Liberation du Congo, MNLC) を作った。しかし、ニンジャの指揮官の一部、クロード・アーネスト・ンダラ、ウィリー・マツァンガ(英語版)らは部下と共に離脱し、サスヌゲソ前大統領に味方した。 内戦は、アンゴラを味方に付けたサスヌゲソ前大統領派が、1997年10月に首都ブラザヴィルを制圧し、大統領に復帰した。コレラ率いるニンジャはプール地方に退き、サスヌゲソ新政府と対立した。 1999年、ニンジャとココイェは、政府との停戦合意に署名した。停戦後、ニンジャとココイェから2000人が政府に降伏した。ただしニンジャの指導者コレラは停戦合意を否定した。2000年、コレラは報道に対し、自身が有するプール地方のニンジャ兵は1万6千であると話している。しかしこの時点ですでに、コレラはニンジャを、リスバはココイェを完全には掌握していなかった。 2000年、USCIS(英語版)のレポートによると、ニンジャは当時、重大な人権侵害、例えば人質拘束、拷問、裁判無しの刑罰(英語版)を行っているとされている。
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