1962–1964
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「ローリング・ストーンズ」の記事における「1962–1964」の解説
1962年7月12日、バンド名はマーキー・クラブ(英語版)そのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初のギグを行った。ラインナップはミック、キース、ブライアン、ピアノにイアン、ベースにディック、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ブライアンとイアンはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した。ビル・ワイマンは1962年12月に加入し、チャーリー・ワッツは翌月の1963年1月に説得されて加入、バンドのリズム体が確定した。ビルがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。当時のマネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキー(英語版)は、クロウダディ・クラブに日曜日の午後のステージを固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン(英語版)」の到来の有力な側面と記した。 ビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントのライセンスを取得するのが不可能であった。従って、アンドリューの母が息子に代わってサインをし、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた。スチュワートはオールダムの構想に合わず、ワイマンによれば「かわいくてやせっぽちの長髪の少年は1963年5月にメンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。」とのことであった。 彼らは新しい演奏、作曲とレコーディングの完全なコントロール、マスターテープの所有権に対するロイヤリティとして当時の典型に対して三倍の額を得ることができた。またデッカとの契約でオールダムはデッカのスタジオでは無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられ、都合の良いスタジオとなった。オールダムはレコーディング経験はほとんど無かったがストーンズのプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたってレコーディングや練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された。 オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることをアピールした。オールダムは「普通の人たち...スタジオでは男たちのために汗をかく。」と語っている。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」という挑発的な見出しを載せ、結局ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝することを止めた。オールダムはバンドに同じスーツを用意したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるのに戻った。ビルによれば、「俺たちの評判とイメージが悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリューが仕込んだ物じゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ。」と語っている。 デビューシングル、チャック・ベリーのカバーである「カム・オン」は1963年6月7日にリリースされた。ストーンズは同曲をライブで演奏するのを拒否し、デッカは宣伝の広告看板を1枚だけ買い上げた。オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入し、「カム・オン」はイギリスのシングルチャートで21位に上昇した。シングルがチャートインしたことでバンドはロンドンの外で演奏する機会が与えられ、7月13日にミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズと共演することとなる。その年の後半にオールダムとイーストンは、ボ・ディドリー、リトル・リチャード、エヴァリー・ブラザースといったアメリカのミュージシャン達をサポートする初のUKツアーを計画した。この1963年秋のツアーは経験の少ないバンドにとってステージの「トレーニンググラウンド」となった。 このツアーの間にストーンズはセカンドシングル、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」を録音した。この曲はレノン・マッカートニーによるもので、イギリスで12位を達成した。3枚目のシングル、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」は、1964年2月にリリースされ、3位を記録した。 オールダムの提案でミックとキースは共同で曲を作り始めた。最初の曲を彼は「めそめそした模倣」と評した。曲作りのペースが進まなかったため、ファーストアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』(アメリカでは『イングランズ・ニューエスト・ヒットメーカーズ』)の収録曲はカバーが大半で、ジャガー・リチャーズのオリジナルは「テル・ミー」のみであった。また、2曲のクレジットは「ナンカー・フェルジ」と記載された。これはバンド全員のペンネームであった。 1964年6月に行われた最初のUSツアーは、ビル・ワイマンによれば「災害」であった。「俺たちが到着したとき、俺たちにはそこでのヒットレコードもその他の物も持っていなかった。」ツアーはそのほとんどがガラガラという状況であったが、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行った。ディーン・マーティンのバラエティショー「ザ・ハリウッド・パレス」では、マーティンはバンドの演奏と髪型をからかった。このツアーの間にバンドはシカゴのチェス・スタジオで2日間のレコーディングを行い、マディ・ウォーターズを含む多くのミュージシャンから大きな影響を受けている。これらのセッションで録音された曲には、初のイギリスナンバー1となったボビー・ウーマックのカバー、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」も含まれた。アメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリスならびにヨーロッパではすでに人気が高まっており、イギリスではファーストアルバムが12週連続No.1に輝いている。 1964年8月にはオランダのスヘフェニンゲンでコンサートを行うが、観客が乱闘を始めたため約15分で中止となった。 1964年にリリースされた『T.A.M.I.ショー』ではジェームス・ブラウン & ザ・フェイマス・フレームスに続いて収録された。ミックは2003年に「俺たちは実際にはジェームス・ブラウンの後には演奏していないよ。なぜならそれぞれのセクションの撮影の間には1時間の間があったからなんだ。それにもかかわらず、彼はそのことにすごくイライラしていた...」と語っている。10月25日にバンドは「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。その際に巻き起こした騒動で、サリヴァンは以降彼らの出演を禁止したが、後に再び出演している。アメリカでのセカンドアルバム『12×5』はこのツアーの間にリリースされている。本作もファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、オリジナル曲も増加した。 イギリスでの5枚目のシングル、ウィリー・ディクスンのカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月にリリースされ、2枚目のイギリスNo.1となる。これはブルース曲として初のNo.1であった。アメリカでのディストリビューターであるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングルリリースを拒否した。ロンドンは1964年12月にジャガー・リチャーズのオリジナル曲「ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」をリリースした。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19位となった。
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