1962–1964とは? わかりやすく解説

1962–1964

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:11 UTC 版)

ローリング・ストーンズ」の記事における「1962–1964」の解説

1962年7月12日バンド名はマーキー・クラブ(英語版そのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初ギグ行ったラインナップミックキースブライアンピアノイアンベースディックドラマーミック・エイヴォリー(後にキンクス加入であったブライアンイアンシカゴ・ブルース演奏したがったが、ミックキースが好むチャック・ベリーボ・ディドリー演奏にも同意したビル・ワイマン1962年12月加入しチャーリー・ワッツ翌月1963年1月説得され加入バンドリズム体確定したビルメンバー引き込まれ理由が、「当時大出力のベースアンプ所有していたから」という、ジョーク交じり他メンバーインタビューもあった。当時マネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキー(英語版)は、クロウダディ・クラブに日曜日午後ステージ固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルース国際的なルネッサンス」の引き金となった語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン(英語版)」の到来有力な側面記したビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムバンドマネージャー就任したが、彼は19歳バンドのメンバーより若くエージェントライセンス取得するのが不可であった。従って、アンドリューの母が息子に代わってサインをし、オールダムベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係築かれた。ゴメルスキーはバンドとの契約書交わしておらず、オールダムマネージャーになることは相談されなかった。オールダムバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変えリチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた。スチュワートオールダム構想合わずワイマンによればかわいくてやせっぽち長髪少年1963年5月メンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドピアニスト担当した。」とのことであった。 彼らは新し演奏作曲レコーディングの完全なコントロールマスターテープ所有権対すロイヤリティとして当時典型に対して三倍の額を得ることができた。またデッカとの契約オールダムデッカスタジオで無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントモノラル設備で、音響処置のため天井は卵ケース貼り付けられ都合の良いスタジオとなったオールダムレコーディング経験はほとんど無かったストーンズプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て楽器から楽器へ、正し方法で」音楽作り出される雑音壁」と言ったリージェント使用料低額で、バンド当時一般的であった3時間分予約する代わりに長期間わたってレコーディング練習続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェント録音された。 オールダムストーンズ独立スタジオ使用していることを音楽雑誌宣伝しEMI管理されビートルズよりも「独立」した存在であることをアピールしたオールダムは「普通の人たち...スタジオで男たちのために汗をかく。」と語っている。オールダムイギリスファーストアルバムでは微笑まないメンバー写真使い、「あなたの娘をストーンズ結婚させたいか?」という挑発的な見出し載せ結局ビートルズ不快な対照としてバンド宣伝することを止めたオールダムバンドに同じスーツ用意したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装現れるのに戻ったビルによれば、「俺たち評判イメージ悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリュー仕込んだじゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ。」と語っている。 デビューシングルチャック・ベリーカバーである「カム・オン」は1963年6月7日リリースされた。ストーンズは同曲をライブ演奏するのを拒否しデッカ宣伝広告看板1枚だけ買い上げた。オールダム指示ファンクラブ会員シングル購入し、「カム・オン」はイギリスシングルチャート21位に上昇したシングルチャートインしたことでバンドロンドンの外で演奏する機会与えられ7月13日ミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズ共演することとなる。その年の後半オールダムイーストンは、ボ・ディドリーリトル・リチャードエヴァリー・ブラザースといったアメリカミュージシャン達をサポートする初のUKツアー計画した。この1963年秋のツアー経験少なバンドにとってステージの「トレーニンググラウンドとなった。 このツアーの間にストーンズはセカンドシングル、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」を録音した。この曲はレノン・マッカートニーよるもので、イギリス12位を達成した3枚目のシングルバディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」は、1964年2月リリースされ3位記録したオールダム提案ミックキース共同で曲を作り始めた最初の曲を彼は「めそめそし模倣」と評した曲作りペースが進まなかったため、ファーストアルバムザ・ローリング・ストーンズ』(アメリカでは『イングランズ・ニューエスト・ヒットメーカーズ』)の収録曲カバー大半で、ジャガー・リチャーズのオリジナルは「テル・ミー」のみであったまた、2曲のクレジットは「ナンカー・フェルジ」と記載された。これはバンド全員ペンネームであった1964年6月行われた最初のUSツアーは、ビル・ワイマンによれば災害であった。「俺たち到着したとき、俺たちにはそこでのヒットレコードもその他の物も持っていなかった。」ツアーはそのほとんどがガラガラという状況であったが、ストーンズ積極的にメディアへの露出ライヴ活動行ったディーン・マーティンバラエティショー「ザ・ハリウッド・パレス」では、マーティンバンド演奏髪型からかった。このツアーの間にバンドシカゴのチェス・スタジオで2日間のレコーディング行いマディ・ウォーターズを含む多くミュージシャンから大きな影響受けている。これらのセッション録音された曲には、初のイギリスナンバー1となったボビー・ウーマックカバー、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」も含まれた。アメリカでの成功本格化ていない頃、本国イギリスならびにヨーロッパではすでに人気高まっており、イギリスではファーストアルバム12連続No.1輝いている。 1964年8月にはオランダスヘフェニンゲンコンサートを行うが、観客乱闘始めたため約15分で中止となった1964年リリースされた『T.A.M.I.ショー』ではジェームス・ブラウン & ザ・フェイマス・フレームスに続いて収録された。ミック2003年に「俺たち実際にジェームス・ブラウンの後には演奏していないよ。なぜならそれぞれのセクション撮影の間には1時間の間があったからなんだ。それにもかかわらず、彼はそのことにすごくイライラしていた...」と語っている。10月25日バンドは「エド・サリヴァン・ショー」に出演したその際巻き起こした騒動で、サリヴァン以降彼らの出演禁止したが、後に再び出演している。アメリカでセカンドアルバム12×5』はこのツアーの間にリリースされている。本作ファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、オリジナル曲増加したイギリスでの5目のシングルウィリー・ディクスンカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月リリースされ2枚目のイギリスNo.1となる。これはブルース曲として初のNo.1であったアメリカでディストリビューターであるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングルリリース拒否したロンドン1964年12月にジャガー・リチャーズのオリジナル曲ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」をリリースした。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19となった

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