1960年代の党勢拡大と中ソ批判とは? わかりやすく解説

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1960年代の党勢拡大と中ソ批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:22 UTC 版)

日本共産党」の記事における「1960年代の党勢拡大と中ソ批判」の解説

合法路線復帰以後党勢拡大し1960年第29回総選挙からは、原則として選挙区公認候補擁立するようになったその後1970年代初めまで得票率伸ばし続けた1961年再開されソ連核実験に対して日本共産党当時ソビエト連邦核実験防衛的主張し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で方針対立激化1965年日本社会党系は原水協脱退して原水禁結成し以後日本原水爆禁止運動世界大会含め分裂続いている。この状況日本共産党は「社会党総評特定の見解世界大会押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁対話拒んでいると主張している。 1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎山田六左衛門構造改革派離脱し、その中の一派共産主義労働者党結成春日らは、宮本専横的な党運営批判し、「一時離党」するとして「日本共産党歳!」と声明したが、党は離党届受け付けず除名処分とした。 1964年には中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線反対する」とし、国会で部分的核実験停止条約批准に党の決定反して賛成票を投じた衆議院議員志賀義雄や、参議院議員鈴木市蔵親ソ連派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成文化人では、中野重治野間宏らがこの時志鈴木らに同調して党に離反している。ソ連志賀グループ公然と支持し日ソ両党は激し論争となった。この時期日本共産党員は競って中国語習い自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持強まっていった(親中派)。4.17ゼネスト問題で、スト破り行為をとった日本共産党は、その後自己批判にもかかわらず総評からの支持失い新左翼党派から厳しく非難された。この問題真相不明であるが、当時日中国交正常化目指していた中国共産党池田内閣窮地に陥らせないために日本共産党指令したという説がある[誰によって?]。 また、1966年文化大革命発生同時期に中国共産党中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判加えられ、ここでも激し論争となった世界各国共産党でも同じよう現象がおきたが中国文革同調し毛沢東個人崇拝するグループ各地つくられ山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党一九六六年に、従来の非妥協的親中路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶はっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現直接お互いに指導者に攻撃加えた八月には最後に残った二人日本共産党代表が北京離れたが、出発のさい紅衛兵激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程西沢隆二安斎庫治原田長司、大隈鉄二福田正義親中共派が党規約そむいたかどで除名された。 その後日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した国民の支持仰ぎ議会多数得て革命路線への転換以後、これらの党内闘争において、コミンテルン支部時代掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党飛び出した側が総じて掲げていた。しかし、実質的に武装闘争路線への回帰や、外国政権党指導受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉多数派工作その破綻と見ることができる。 ソ連中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来イメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年プラハの春制圧したチェコスロバキア侵攻際し日本共産党ソビエト連邦共産党明確に批判した1979年12月ソ連アフガニスタン軍事介入すると(アフガニスタン紛争)、翌年1月ソ連批判しソビエト連邦軍撤退要求した。また1979年中国によるベトナム侵攻中越戦争)を批判しカンボジアポル・ポト政権北朝鮮指導部朝鮮労働党)による大韓航空機爆破事件ラングーン事件日本漁船銃撃事件にも厳し態度をとった。 一方でソ連派党内潜伏しており、1991年ソビエト連邦の崩壊後、ソ連共産党内部文書情報公開グラスノスチ)と文藝春秋週刊文春』の報道が始まると、日本共産党は独自調査団モスクワ派遣し明らかになった事実を基に、野坂参三を「ソ連内通者」として除名した日本共産党は、こうした自党からの分派は勿論、新左翼共産同ブント革共同中核派革共同革マル派革労協社会主義労働者党社労党)などの政治団体運動1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し政治などの問題共闘拒絶し排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党民青はこれらの党派厳しく対し1971年6月19日琉球大学男子寮で、民青革マル派衝突した際、革マル派町田宗秀が、寮の4階から転落して死亡した。 こうして、ソ連中国との激烈な論争大量除名分派生み出しながら、同党は1960年代半ばごろに「自主独立路線確立し、むしろ50年以来傷ついた威信党勢力を70年代前半にかけて長期的に回復拡大していった。1967年長野県塩尻市で初の党員市長高砂政郎)が、誕生した

※この「1960年代の党勢拡大と中ソ批判」の解説は、「日本共産党」の解説の一部です。
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