1960年代の党勢拡大と中ソ批判
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「日本共産党」の記事における「1960年代の党勢拡大と中ソ批判」の解説
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続けた。 1961年に再開されたソ連の核実験に対して、日本共産党は当時、ソビエト連邦の核実験は防衛的と主張し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で方針対立が激化。1965年に日本社会党系は原水協を脱退して原水禁を結成し、以後は日本の原水爆禁止運動は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいると主張している。 1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。 1964年には中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった(親中派)。4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田内閣を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある[誰によって?]。 また、1966年、文化大革命発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名された。 その後「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後、これらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。しかし、実質的には武装闘争路線への回帰や、外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。 ソ連、中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年のプラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。1979年12月にソ連がアフガニスタンに軍事介入すると(アフガニスタン紛争)、翌年1月にソ連を批判し、ソビエト連邦軍の撤退を要求した。また1979年の中国によるベトナム侵攻(中越戦争)を批判し、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)による大韓航空機爆破事件、ラングーン事件、日本漁船銃撃事件にも厳しい態度をとった。 一方でソ連派が党内に潜伏しており、1991年のソビエト連邦の崩壊後、ソ連共産党内部文書の情報公開(グラスノスチ)と文藝春秋『週刊文春』の報道が始まると、日本共産党は独自調査団をモスクワに派遣し、明らかになった事実を基に、野坂参三を「ソ連内通者」として除名した。 日本共産党は、こうした自党からの分派は勿論、新左翼の共産同、ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体、運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党、民青はこれらの党派と厳しく対し、1971年6月19日、琉球大学の男子寮で、民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が、寮の4階から転落して死亡した。 こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢力を70年代前半にかけて長期的に回復、拡大していった。1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が、誕生した。
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