1960年代の音楽活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:52 UTC 版)
「アルバート・アイラー」の記事における「1960年代の音楽活動」の解説
アイラーはアメリカに戻り、ニューヨークで活動を始める。ベーシストのゲイリー・ピーコック、ドラマーのサニー・マレイとともに、強い影響力を持つトリオを結成した。このトリオは、アイラーの重要な転機となったアルバム『スピリチュアル・ユニティ』(ESPディスク・レコード)を発表した。同アルバムには、約30分間の強烈なフリーの即興演奏が収録されている。本作はフリー・ジャズの著名な作品として知られ、収録曲「ゴースツ」はアイラーの代表曲とされている。エリック・ドルフィーがアイラーのことを「これまでに出会った中で最も優れた演奏家だ」と言ったという話があるが、こうしたニューヨークのジャズのリーダーの一部から評価され、アイラーはフリー・ジャズの聴衆を増やしていった。彼はジョン・コルトレーンのような経験豊かなベテランだけでなく、今まさに生まれ出ようとしていた新しい世代のジャズ演奏家達にも影響を与えた。1964年にはアイラーは、先のトリオのメンバーにトランペットのドン・チェリーを加えたバンドでヨーロッパをツアーして回っている。このツアーは録音され『ヒルヴェルスム・セッション』として発表された。 アイラーのトリオは、オーネット・コールマンらのフリー・ジャズの後継者だった。マレイは安定した周期的なリズムを刻むことはまずなく、またアイラーのソロはスピリチュアルなものであった。しかしトリオでの演奏は依然としてジャズの伝統を感じさせるものだった。このグループによる次の演奏は、トランペッターの弟ドナルドが加わったもので、これまでの演奏のあり方を根底から覆すものだった。アルバム『ベルズ』から始まる、ニューヨーク・タウンホールでのコンサートの録音には、ドナルド・アイラー、チャールズ・タイラー、ルイス・ウォレル、サニー・マレイらが参加している。アイラーは連続して行進曲、-あるいはメキシコの伝統的な音楽のスタイルと言うべきか-、を演奏する方法を採り入れ始めていた。彼らはテーマと、複数のサクソフォーンが同時にフリーな即興演奏を倍音を出しながら吹くパートとを交互に演奏した。野性的かつ唯一無二なその音は、アフリカがルーツと思われる集団即興に立ち帰らせるものであった。この新しい音は、スタジオ・アルバム『スピリッツ・リジョイス』で確固たるものとなり、さらに同じ顔ぶれによるニューヨークのジャドソン・ホールでの演奏が録音された。アイラーは、1970年にインタビューで、自らの後期の演奏のスタイルを「エナジー・ミュージック」と呼んでいる。これは、そもそもアイラーと、コルトレーンやサン・ラらが演奏していた「インターステラー・スペース」と対比してのことである。 この方法は『ヴィレッジ・コンサーツ』まで続き、アイラーが本でいうように、ESPレコードはフリー・ジャズの主要なレーベルとしての地位を確立した。 1966年、アイラーはコルトレーンの強い勧めもあってインパルス!レコードと契約した(1968年のアルバム『ニュー・グラス』は、大半の楽曲がボーカル入りという異色作である)。コルトレーンは当時インパルスの中心的な呼び物とでもいうべき存在だった。しかし、インパルスから録音を発表するようになったにも関わらず、アイラーの根底から従来の音楽とは異なった演奏が多数の聴衆を獲得することは、決してなかった。コルトレーンは1967年に亡くなったが、アイラーは彼の葬儀で演奏した数人の演奏家の一人であった。1967年後半には弟ドナルド・アイラーがいわゆる神経衰弱となった。ニュージャージー州ニューアークで発行されていた音楽雑誌『クリケット』の編集者アミリ・バラカとラリー・ニールへ宛てた手紙の中で、アイラーは「空中に不思議な物体が浮かんでいるのを目撃した」と語り、彼と弟は「額に全能の神のしるし」をつけられていると信じるようになった、と語っている。
※この「1960年代の音楽活動」の解説は、「アルバート・アイラー」の解説の一部です。
「1960年代の音楽活動」を含む「アルバート・アイラー」の記事については、「アルバート・アイラー」の概要を参照ください。
- 1960年代の音楽活動のページへのリンク