1871年 - 1875年
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「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング」の記事における「1871年 - 1875年」の解説
1871年6月3日、フランク・ジェイムズとジェシー・ジェイムズ、コール・ヤンガー、クレル・ミラーが、アイオワ州コリドンの銀行を襲った。この銀行はシカゴのピンカートン全国探偵機関に連絡し、この有名な機関がジェイムズ=ヤンガー・ギャング団を追求する最初の機会になった。この機関の設立者アラン・ピンカートンが息子のロバートを派遣し、郡保安官と協力してギャング団をミズーリ州シビルベンドの農園に追い詰めた。短い銃撃戦が起こった後、ギャング団はうまく脱出した。1871年6月24日、ジェシー・ジェイムズは「カンザスシティ・タイムズ」に投稿し、共和党は自分とフランクを強盗を働いたと告発することで、南軍への忠誠心故に迫害していると主張した。「しかし、私は堕落した急進党が私についてどのように考えようとも気にしない」と記し、「私が強盗だったと彼らが考えるよりも早くそうではなくなるだろう」と続けていた。 1872年4月29日、ギャング団はケンタッキー州コロンビアの銀行を襲った。その1人が、金庫を開けることを拒んだ現金出納係のR・A・C・マーティンを撃ち殺した。1872年9月23日、3人(元ブッシュワッカーのジム・チャイルズによってこの3人はジェシー・ジェイムズ、コール・ヤンガー、ジョン・ヤンガーと同定された)が、数多い人のいた第2回カンザスシティ産業博覧会切符売り場を襲った。彼らは900ドルほどを奪い、その後に起きた切符販売員との闘争の中で誤って小さな少女を撃った。この強盗がヤンガーあるいはジェイムズ兄弟によって行われたという証拠は無い。ジェシーは手紙を書き、自身あるいはヤンガー兄弟の関与を否定した。コール・ヤンガーはこの件について激怒し、その手紙の前に自身と弟のジョンが犯罪に関わっていなかったと主張した。この事件は「カンザスシティ・タイムズ」の編集者ジョン・ニューマン・エドワーズによって、「犯罪の騎士道」と題する有名な論説で称賛された。その後間もなくジェシー・ジェイムズのものと考えられる匿名の手紙を掲載したが、それは近づく大統領選挙に言及していた。「1隊の者が大胆な強盗を働いたとして、ヤツらを吊し上げろという声がある。しかしユリシーズ・グラントとその党は何百万もの金を盗んでも、それで万事良しである」とその無法者は書き、「彼らは貧乏人と金持ちから奪い、我々は金持ちから奪って貧乏人に分け与えている」としていた。 1873年5月27日、ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団がミズーリ州セントジェネビーブのセントジェネビーブ貯蓄協会を襲った。彼らは空中に向かって発砲し、「万歳、ヒルデブランド!」と叫びながら馬で逃げた。ヒルデブランドとはその地域で著名な南軍のブッシュワッカーであり、イリノイ州で撃たれて死んだばかりだった。 1873年7月21日、ギャグ団は初めて列車強盗を働いた。アイオワ州アデア近くでロックアイランド鉄道の機関車を脱線させた。この衝突で機関士のジョン・ラファーティが死んだ。ギャングは荷物専用車の運送会社金庫から2,337ドルを奪ったが、大量の現金を運んでいた大陸横断急行の荷物は見逃すところだった。 1873年11月23日、ジョン・ニューマン・エドワーズはその新聞である「セントルイス・ディスパッチ」に付けた20ページの特別増刊で、ジェイムズ兄弟、ヤンガー兄弟、アーサー・マッコイの長い称賛文を掲載した。この増刊の大半は「恐ろしい五人組」と題され、ギャング団の公的顔であるジェシー・ジェイムズに捧げられ、無法者たちの南軍に対する忠誠心を強調していた。 1874年1月、ギャング団はルイジアナ州ビエンビル郡で、駅馬車強盗を働いたと疑われ、また後にはアーカンソー州のマルバーンとホットスプリングスの間でも発生した。アーカンソー州のとき、南軍の退役兵に「北部の者が無法に駆り立てており、それで支払わせているつもりだ」と言って腕時計を返した。1874年1月31日、ミズーリ州ガズヒルでアイアンマウンテン鉄道の南行き列車を襲った。列車強盗を働いた2回の中では初めて、乗客からも金品を奪った。どちらの列車強盗でも通常の標的は運送会社に属する荷物専用車の金庫であり、異常なくらい少量の金しか積んでいなかった。ミズーリ州の場合、ギャングは乗客の手を調べ、労働者からは奪わなかったとされている。多くの新聞がこれはアーサー・マッコイのギャングがやったと書いていた。 ガズヒルで強奪された金庫を所有していたアダムズ・イクスプレス・カンパニーが、この無法者たちを捕まえるためにピンカートン全国探偵機関を雇った。1874年3月11日、ジェイムズ兄弟を捜査するために派遣されたジョン・W・ウィチャーが、ミズーリ州ジャクソン郡田園道路の傍で射殺されているのが見つかった。他にジョン・ボイルとルイス・J・ラルという2人のエージェントが副保安官エドウィン・B・ダニエルズに伴われ、牛のバイヤーの振りをしてヤンガー兄弟を追っていた。1874年3月17日、この3人はミズーリ州モーンゴースプリングスに近い田舎道で、ジョン・ヤンガーとジム・ヤンガーに止められた。ボイルは逃亡し、ラルとダニエルズが撃たれ、ジョン・ヤンガーはラルに殺された。ダニエルズはそのとき死んだが、ラルはその時点では生き残り、数日後に傷がもとで死ぬ前に検視官の質問に答えることができた。ジョン・ヤンガーは1871年1月にテキサス州の警官2人を殺していた。 ピンカートンの探偵が死んだことで、ミズーリ州の戦後では最初の民主党知事サイラス・ウッドソンが感じていた当惑がさらに深刻になった。ウッドソンはアイアンマウンテン強盗の犯人に2,000ドルの賞金を掛け(通常の犯罪であれば高くても300ドル止まりだった)、議会を説得してこの悪名高いギャングを追い詰めるために10,000ドルのシークレットサービス資金を提供させた。最初のエージェントであるJ・W・ラグスデールは1874年4月9日に雇用された。同年8月30日、3人のギャングがミズーリ州レキシントンからミズーリ川を渉る駅馬車を襲った。これは町の崖上から数百人が見ている前で起きた。強盗のうち2人はフランク・ジェイムズとジェシー・ジェイムズだと乗客が証言した。知事代行のチャールズ・P・ジョンソンはセントルイス警察から選別したエージェントを派遣した。 1874年12月8日、カンザス州マンシー近くで、ギャングがカンザス・パシフィック鉄道の列車を襲った。これはギャングにとっては3万ドルと最も収穫の多いものとなった。ギャング団の新参者だったウィリアム・"バッド"・マクダニエルが強盗した後でカンザスシティ警察の警官に捕まえられ、逃げようとしたときに射殺された。 1875年1月25日夜、ピンカートンのエージェントがジェイムズ農園を取り囲んだ。フランクとジェシーの兄弟は以前からそこにいた可能性が強いが、既に立ち去っていた。ピンカートンのエージェントは鉄の発火装置を家の中に投げ込み、炎を上げていた暖炉に転がり入った時に爆発した。その爆風でジェイムズ兄弟の母ゼレルダ・サミュエルの右腕を飛ばし(その夜肘のところで切断された)、9歳の異腹の弟アーチー・サミュエルを殺した。1875年4月12日、身元不明のガンマンが隣人のダニエル・アスキューを射殺した。アスキューは元北軍の民兵であり、ピンカートンのエージェントが襲撃した時にはその家が基地になっていた。この時点でアラン・ピンカートンはジェイムズ=ヤンガー・ギャング団の追跡を止めた。 1875年9月7日、ギャングはウェストバージニア州ハンティントンに行って銀行を襲った。新しいメンバーであるトム・マクダニエルズ(バッドの兄弟)とトム・ウェッブの2人が参加した。マクダニエルズは自警団に殺され、ウェッブは捕まえられた。他にいたコールとフランクは逃亡した。ウェッブは南軍の退役兵であり、フランクやコールと共にローレンスにいた。 1875年にはまた、ジェイムズ兄弟がテネシー州ナッシュビルの郊外に移動しており、おそらく探偵による将来の襲撃から母を救い出すためだった。そこに行ってからジェシーは地元新聞に手紙を書き、南軍の英雄および急進派共和党の執拗さに対する殉教者としての自己の位置づけを強調した。
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